− 真言宗中国開教史(一) −
日本仏教中国開教の発端
明治六年 小栗栖 香頂(おぐるす こうちょう)中国開教を目指して北京に至る
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ その年、高野山 ■

 私が訪中することに友人たちはあまり賛成ではなかった。その前年、高野山大学では、学費の値上げなどをめぐって大学開校以来はじめてという同盟休校があり、学友会は大学当局と処分、処分反対の緊張関係にあった。学友会の執行委員だった私の立場は微妙なものだった。数ヶ月間大学を離れることが、そういう状況を放棄することだという、友人たちの意見だった。

 その年、毛沢東のきもいりではじめて開かれることになった「日中青年友好大交流」に、東京にあった「日中仏教交流懇談会」へ中国側から参加団体として招請があった。その話が東京の友人を通じて私にあった時、私はどうしても参加したいと思った。

 理由の一つは、弘法大師が長安で過ごした青龍寺跡地へ戦後初めての日本人として参拝できる可能性があったこと。実はこの時点で日本国内では弘法大師留学の跡地・青龍寺について、戦前の調査以降の情報は伝えられておらず、訪中前にお訪ねした中野義照前高野山大学学長も「機会があったらぜひ調べてほしい」とのお話があった。青龍寺跡地は長い間所在不明になっていた。戦前、幾度か調査の機会はあったが戦乱の中、調査はとだえて戦後、中国との国交断絶により、中国側の研究成果はほとんどこの時点で日本には届いていなかったのである。今日では信じられないことだが六十五年当時、訪中する日本人は帰国後、毎月警察官の自宅訪問にあった。したがって当時訪中する日本人はよほどの物好きか、理由がある一部の日本人だけだった。大方の日本人の訪中は、日中国交回復後に危険負担がなくなってはじまった。

 青龍寺跡地については西安郊外・鉄炉廟村のコーリヤン畑に案内をされ、まさに戦後初めての訪問者となった。当時は畑の中にコンクリートの碑が一つ建っているだけの、西安郊外の寒村だった。記念に許可をもらって畑に散在する唐代布目瓦の小片を拾ってきたが、今も書斎の大事な記念品になっている。(このとき撮影した青龍寺跡地写真は弘法大師全集に掲載された)

 上記のような具体的な理由とは別に、茫洋とした、それまでの大学での四年間、思想や哲学においもとめたもの、その結果のようなものを、卒業もまじかにした私はどこかで眺めてみたいと思っていた。当時の私にとって中国へ出かけることは、いうところの中国三千年の「哲学」の実験、理想の実験の場を覗いてみることでもあった。