− 真言宗中国開教史(一) −
日本仏教中国開教の発端
明治六年 小栗栖 香頂(おぐるす こうちょう)中国開教を目指して北京に至る
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 長崎をでて北京へ向かう(明治六年) ■

 香頂は明治六年と九年、前後二回、中国へ渡りいずれも約一カ年滞在している。私が興味を持って本稿で取り上げたのは明治六年の第一回渡支である。というのは明治九年の第二回渡支は上海別院の創設という目的で、東本願寺当局の組織的援助と政府の公認もあった事業である。しかし、はじめて彼が明治六年、上海から北京、五台山を旅したのは全く彼の個人的な衝動から出たものであるからだ。

 後に東本願寺が出版した『東本願寺上海開教六十年史』にも、小栗栖香頂等一行六名が上海に東本願寺別院を作るため明治九年七月に渡支して、上海で行った活動のもようについてはくわしく書かれている。しかし小栗栖の第一回目の渡支については数行出ているだけである。これからも分かるように『上海開教六十年史』や、その後書かれた東本願寺の中国開教をあつかった文献でも、小栗栖の第一回渡支についてはあまりくわしく書かれていない。

 その後の歴史学からのとりあげ方も、東本願寺の中国開教において、彼が果たした役割については、本願寺という組織のなかの一人であったこと、あるいは台頭しつつあった日本資本と、それに合流しようとする流れがあり、香頂もその流れの中にいたんだという評価がある。しかし私見するに、小栗栖香頂という人物の卓見と政治力は、東本願寺の基本的政治方向を左右するにたる十分の人物であったとみてもよいのではないか。政治的、学問的力量において、当時この人物の右に出る人間は、東本願寺にはいなかったといってもまちがいあるまい。彼が書きしるした大部の著書を見ても、そこにしるされた強烈な危機意識と政治分析、それを実行するための権謀術数は、東本願寺の中国開教という、とほうも無いことが、実は小栗栖香頂という男の、胸先三寸にあったとしか思えないほどだ。

 香頂が中国に渡るために、自坊の中戸次の妙正寺を出たのは明治六年三月九日であったが、実際に長崎から上海に向けて出発したのはその年の七月十七日であった。約四カ月長崎にいたことになる。それには次のような事情があった。まず第一に彼は官憲の許可を受けなければならなかったこと、二つには語学を練習しておく必要があったからである。

 中国に渡るため、つてを求めていた香頂は、おりよくちょうどそのころ九州の神官僧侶の学力試験が長崎で開かれ、そこに教部省の役人が来ることを知り、その場で中国行きの許可を得る見込みで、まず長崎に出むいた。長崎での彼は諸宗僧侶一四〇人余りの学力試験に当たったり、かたわら中教院を開いて、明治三年十月新しく制定された、最初の刑法典である、「新律網領」の講義をしたりして七月まで中教院の事務で忙殺されていた。この間、長崎の聖福寺(唐寺)に出むいて、そこの中国僧に中国語を学んでいる。もっとも、これはほとんど役に立たなかったようである。

 その頃、長崎地方には雨が降らず、日照りが長いあいだ続いていた。中教院に百人もの僧侶が来ているのを知った農民たちは、雨ごいの御祈祷をたのんできた。人心の同様を恐れた県庁は香頂に祈祷を命じた。三日間の大法要の最後の日、祈り天に通じたのか大雨が降った。香頂の得意や知るべし。七月県庁に中国行きの許可を申請。誰が反対しよう、天に祈れば雨まで降らす人の至誠を疑ごうはずもない。

 「七月十七日、ゴールデンエジ艦に搭じ、上海に向かう。徳川の鎖港己来、僧の西遊杜絶するを以って僧の送別雲集し、其の壮遊を栄餞せざるは莫し」

 というありさまであった。

 みずから雅号に「蓮舶」とつけ蓮の船で支那、天竺にまで渡ろうと思っていたくらいだから、七月の荒波を走るゴールデンエジ号を蓮の船くらいには思ってはいただろうか。あるいは自分が徳川鎖国以来、何百年目かに初めて中国をおとずれる日本人僧と思い、かつて長安に真言密教を求めた弘法大師を想起していたかも知れない。

 いったいこの人物は真宗僧侶のくせにひどく弘法大師が好きである。この時の渡支から帰国した香頂は、翌年の明治八年、本山に新しく開局された編集局の監督を命ぜられている。今でいう出版部長のような仕事だったと思うが、その時の第一番目の仕事が、なんと「真宗」ではなく『真言宗大意』の出版であった。その中で彼は「予、僧史を読んで弘法大師空海の伝に至るに、未だ曽て撃節して嘆ぜずんはあらず、其の天資の聰敏なるに論なし、其の志の堅忍不抜なると、其の文章のメ々不群なると、蓋し常人の企及すべきに非る也」とべたほめである。

 香頂がどのくらい弘法大師と真言が好きだったかということには、こんなエピソードもある。

 高木大亮といえばその当時、東京・護国寺(真言宗豊山派)の管長をしていた人であるが、この人、香頂が真言にくわしいという話しを聞いて、ある日彼から一日講義を聞いたことがある。

 香頂は「いろは」を弘法大師の著作に合わせ十住心に配して講じたという。余りの話しのうまさによろこんだ高木大亮管長は、自分の秘蔵していた聖武天皇の宸翰の経文を記念に贈ったというほどである。それだけ香頂の学問の幅はひろかったということだろう。


 上海に船が着いたのは七月十九日であったが、彼の『略伝』を読むと、はじめから香頂は北京へ行くことが目的であったと思われるふしがある。そこでしかるべき人物に会うことをはじめから目的にしていた。

 上海には八月一日まで滞在しているが、北京に入るための許可をまっていたためで、別にこれといったことはしていない。上海では龍華寺という寺を訪問しているにすぎない。そこで彼は住職の所證という人物に会って北京の寺の様子をたずねている。そこでは、後に北京に入って、はじめて彼があかす日本、中国、印度をめぐらす「アジア大仏教外交構想」などは全く話していない。初めての異国で、また北京へ入る許可をまっていることから中国官憲への配慮からか、「北京の名刹に遊び高僧の話を聞きたいので、誰か北京の坊さんを紹介してくれ」とたのんでいるだけにすぎない。香頂にはこの時是が非でも北京に行かなければならない大外交構想があったのだが。

 またそれほどまでにして彼が北京に入ることを計画していたのには、彼の性格も起因している。彼の口ぐせにこういうものがあった。

 「大丈夫 事を天下に為す。必ずや先ず位置を選ぶを要す。位置高からざれば、その声遠く、達すること能はず」である。

 彼はたびたび本山の任命をことわっている。それも京都で役職につくことを。彼の考えでは東京は聖上のおられる所だから日本の地頂である。この地頂から日本を見わたせば地理人情一目瞭然である。しかし京都はすでに王気去り、人の心は萎靡(いび)している。だから京はすでに大丈夫の居るべき所ではないというのである。

 彼のもう一つの雅号である「八洲」も東京が好きな「関八洲」から来ている。そういう彼だから、大丈夫たるものが事をなすには中国の頂上である北京に行かなければならない。でなければ中国のすみずみまで自分の声が届かない、ということであった。

 上海で北京入京の許可を待って十日余りをすごした香頂は、許可の出た八月一日、「山西号」で海路天津へ向かった。六日に天津に着いた香頂は、やはりここでも北京の寺の様子をたずね歩いている。

 略歴には「天津の大悲庵という寺の證空という僧に会って、北京までの道程、寺の事情などを聞いた」とある。おもしろいのは、彼がこの證空に中国にはまだ天台が残っているのかどうか聞いて、證空が「そんな名前は知らない」というのを聞いて、ひどくがっかりしていることである。

 これほど密教ずきの香頂であったので、中国でできたら密教についても勉強するつもりもあった。そういうつもりもあったからして、自分を入唐求法した弘法大師にひきくらべたりもしている。翌年、北京で父親の法要をしているが、この時のもようを、空海が青龍寺でしたという大衆供養になぞらえ、ひどくきげんをよくしていることが記されている。

 あるいはもっとすすんで、彼には中国に密教を布教すべきだという考えもあった。此れは中国から帰国して、そういう考えになったのであろうが、先述の『真言宗大意』にはそれらのことが書かれている。