− 真言宗中国開教史(一) −
日本仏教中国開教の発端
明治六年 小栗栖 香頂(おぐるす こうちょう)中国開教を目指して北京に至る
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 活仏に会う ■

 北京・龍泉寺の清慈庵におちついた香頂は、中国語の習得のために猛烈な学習をはじめた。この時の学習ノートが大分の自坊、妙正寺に残っているが、とにかく聞くことすべてをノートしたと思われるような帳面である。一つの単語に中国音のルビをつけ、意味を記している。この頃、香頂につかまった龍泉寺の和尚たちは、まったくえらいヤツが来たと、香頂につかまらないよう逃げまわっていたろう。

 香頂という人物はよほど学問をする環境に恵まれていた。この頃の香頂を助けたのは龍泉寺に入門を許した「本然和尚」であった。

 この人物は龍泉寺の住職ではなかったが、執事長とかそういう役職の僧だったらしい。この頃、香頂は無理がたたって病気になっているが、こういう香頂を助けて、彼の勉学の指導をしてくれた本然和尚がいなかったら、彼の計画は早くも破綻していたろう。

 また香頂を受け入れてくれた龍泉寺の好意もあった。何しろ龍泉寺に入門するのに、

 「語学がわからないので、お前さんの所に弟子がたくさんいるのだから、それの一人を語学の先生に私につけてくれ。それも温厚な人物で、教える時怒らない人間にしてくれ。教育のしかたはこういうふうにしてくれ」

と、あれやこれや涼しい顔をして頼みこむほどの男を、平気で入門させたこの和尚も、なるほど北京一の大和尚であったのか。

 病気の体をおして中国語の勉学に入った香頂はこの年の年末には、すでに中国語会話の大方をマスターしてしまった。しかし反西洋植民地主義・日中印・三国仏教同盟結成という大目的達成のためにはるばる日本からやってきた香頂が、それくらいのことで満足できるはずがなかった。

 本然はたしかに親切でよく助けてくれる。しかし彼は大目的を謀るに足りる人物ではない。悶々として日を送っていたある日、五台山・広宗寺の大沁という僧が龍泉寺にやってきた。メモ魔の香頂のことだ、ほっておくわけがない。筆と紙を持ってさっそく大沁のところへ飛んでいって、五台山の詳細な話しを聞いた。

 大沁がいうには「五台山は天下の仏法の首創」であると、聞くやいなや、すぐさま彼は五台山へ登ることにした。彼の性癖は論を成して、書を呈することである。その年の十二月一日、北京雍和宮(ようわきゅう)の活仏、洞濶爾胡図克図(トンカルフトクト)に二千字にのぼる長文の上表文を呈して、五台山への便を依頼した。五台山はラマ教の聖地でもあり、雍和宮の活仏はラマ教最高の聖者であったからである。

 この上表文の中で十の質問を活仏にしているが、これは香頂という人物と中国での活動目標を知る重要資料である。

 十の質問とは、

 @ キリスト教に対する護法の良策は何か。
 A 前蔵後蔵(チベット)はどのような仏教でキリスト教に対抗しているのか。
 B 内外蒙古仏教はキリスト教に対してどうか。
 C 西域の文字は印度の文字と同じか。
 D 唐代の梵字は日本に伝わっているが、現在はどうか。
 E 印度には倶舎、唯識は残っているか。
 F 龍樹、提婆の学の存否。
 G 金剛智の学の存否。
 H インドがイギリスの属国となり、国民は回教かキリスト教だというがほんとうか。
 I 仏教の須彌山説は明確だが、この頃西洋人が一周地球説(地球球体説のこと)をたてて我四洲をけなしているがどう考えるか。

 先年筆者は大覚寺の草繁門跡に、明治の何年だかに東京で開かれた博覧会に仏教徒が地球は丸いという説に反対して、須彌山世界の模型を作って出品したことがあるという話しを聞いたことがある。だから香頂が論余って一周地球説と西洋植民地主義をいっしょくたに論難してもこれはしようがない。
 それはともかく、一夜にして二千字もの漢文の上表文を作るこの男のエネルギーとはいったいどこから来ているのだろうか。彼の心のいちばん奥にかくされていたもの、ブスブスと燃えていたものはいったい何であったのか。

 おそらくそれは彼が西本願寺の出身でなく、東本願寺の出身であったことと関係していると思える。香頂の心のいちばん奥にあった影の世界は、東本願寺が参加した、幕末から明治にかけての政治的なギャンブルと、先を読むことのできなかった教団の政治的失敗に起因していると思われる。先述したように東本願寺は幕府方に賭けた。しかしそれは失敗した。香頂自身はむしろ朝廷派であったのだから、彼の立場は微妙なものであったろう。新国家が成立するまで何もしなかったという、香頂の政治的態度もここらに原因しているのではなかろうか。

 香頂の思想の中には徳川幕府を倒し、新国家を成立させようという考えがある、しかしもう一方には自分が所属している東本願寺教団が向かおうとしている方向とは、全く矛盾した自分がある。ここに彼の精神的パラドックスがあったのではなかろうか。

 彼の組織的立場と個人的立場は、いわば革命と反革命の両極端にあった。それをどこで「止揚」するか。考えようによっては彼の明治六年の渡支は、こういう政治的両極面をどこかで爆発させることで、自己の一体化を図ったともいえよう。それが北京であったともいえるのだ。

 この少し前の明治三年、新政府は東本願寺に北海道開拓を命じている。これは幕府方についた東本願寺への懲罰政策であった。ただでさえ新国家の神道国教化政策の中で一大危機にあった東本願寺にとって、多額な費用を必要とする北海道開拓は、パニックであった。

 香頂は明治政府の北海道開拓に代表される、本願寺に対する一連の「おしおき政策」をあらかじめ知っていたかもしれない。彼は政府高官、それも権力中枢にあった何人もの人間と交際があったのだから。妙正寺には副島種臣とか三條実美等から、彼にあてた書が何通も残っている。だからこれをあらかじめ知らなかったということはあるまい。そこで北海道開拓命令を聞いた時、香頂はさっそく「開拓義」を書いて現如法嗣に建言している。

 この文章は香頂の屈折した、政治的パラドックスをよく説明していると思える。この中で彼は次のようなことを述べている。

 「蝦夷開拓の朝旨深遠測ル可ラズト雖モ、恐ラクハ難題ヲ我本山ニ命ズルニ似タリ」
 「香頂案ズルニ是レ此事業ハ国家千歳ノ美挙ニシテ、我宗門再興ノ大機会ナリ」
 「法嗣自青鞋竹杖ヲ以テ東北諸国ノ檀越ニ巡化セバ天朝ノ為メナリ宗門ノ為メナリ」

 彼が熱烈な動王家であり、「朝家ノ御為云々」と念仏申していたとしても、彼はきわめて冷静に北海道開拓命令の裏にあるものを分析している。香頂がただものでなかったのは、それだけでなく「これを宗門再興のため」だと云い切ったことである。

 それまで徳川幕府の保護政策の中にあった教団にとって、新国家の成立とそれに続く一連の政策は、やはり法難であった。本願寺自体のタガがゆるんでいた。これをたてなおすために、彼はさらに大きな困難をぶつけることで、この北海道開拓を利用して組織的なたて直しを謀ったといえよう。そのためには法嗣にわらじと竹のつえで全国を歩きまわれとおどすぐらいは、なんでもないことであった。