− 真言宗中国開教史(二) −
真言宗布教制度の確立と日清戦争・従軍僧
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 明治初期、混乱する宗教政策 ■

 明治政府のやつぎばやの仏教弾圧の中、仏教教団がとった最初の戦術は、キリスト教をおとりにした陽動作戦であった。政府に対してはキリスト教と西洋キリスト教帝国主義によるアジア侵略の危険性を説く。それを政府に対するジャブにしておいて、そのあいだに各教団の結束をかためようとするものであった。

 真言宗の高岡増隆が盟主となり明治二年、東京で開かれた「仏教各宗同盟会」は、このような路線で教団護持を図るとともに、その政策を全国へ伝えるため"勧誡師"(ごんかいし)の制度を決定した。

 明治三年、「勧誡師(ごんかいし)」は明治政府に認可される。この「勧誡師」が、真言宗では、いわば最初の宗派公認の「布教師」といったものにあたるだろう。ところが、実態は、ほとんどお笑い草だった。この「勧誡師」の仕事は一般大衆にたいする布教なのではなく、当時、政府のあまりの仏教弾圧に動揺して還俗したり、にわか神主に豹変したり、寺の看板をほうりだして○○神社に名義変更してしまおうなどとする住職や寺を、おさえるため全国へ派遣された、いわば脱藩防止・説得工作係なのであった。(この時期、超有名寺院の脱藩が続出した。鎌倉八幡宮、箱根神社、大山・阿夫利神社、四国金毘羅宮等などは元々は真言系大寺院か寺院の中に神社がまつられていた神仏混合信仰形態だったが、仏堂を破壊して神社のみ残した当時の記録が多数残っている。高野山金剛峰寺に対しても弘法神社になるよう指示があった)

 この頃政府は「大政官達(だじょうかんたっし)」をもって、僧侶に苗字をつけること(出家者に還俗を強いる)を命じている。この時高野山の僧侶がどのような反応を示したか、こういうエピソードがある。

 当時、高野山・金剛峯寺の座主であった研暢は「降魔 研暢・ごうま けんちょう」とつけた。さしずめ廃仏毀釈をすすめ、金剛峰寺を「弘法神社」にせよなどという薩長政府を悪魔にたとえ、この悪魔どもを降参させる(降魔)というゴロ合わせだろう。薩摩の"摩"の字は悪魔のマの字ということだ。正智院良基は、「出家者に苗字をつけろとは、還俗せよとの国家命令ではないか、ならば釈尊の弟子としよう」と、「釈良基」とつけた。明王院の増隆は「アホらしい!、裏山は、高岡ケ峰だ!」そこで「高岡増隆」とした。遍照光院の高淳は、やはり裏山から名前を借りて「照岡高淳」とした。ところが釈迦文院の宥盛には寺の近くに峯も岡もない、そこで「十方化(とぼけ)宥盛」と附けたという。これはどうみても神道一辺倒の薩摩オカルト政府への、無言の抵抗ではないか。明治はこういう時代でもあった。