− 真言宗中国開教史(二) −
真言宗布教制度の確立と日清戦争・従軍僧
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 仏教教団のようやくの独立 ■

 「神仏合同大教院」の解散で、仏教教団はようやくその独自性を認められ、各宗独自の「大教院」の設立が認可された。明治八年、「真言宗大教院」が芝・真福寺(現在の東京都港区愛宕・真言宗智山派東京宗務所が置かれている)に設置され、後の宗務所、宗務支所が全国に作られた。

 「真言宗大教院」の設置によって、いよいよ布教ということが目前の問題になってきた。しかし真言宗の場合、ほとんどその経験がなかったため、具体的にはどのようにするものか、多方の教団人には全くわからなかった。

 そこで選ばれたのが、先述の山本寂明である。明治八年十月、山本寂明ははじめて高野山にまねかれ、約一ヶ月間、山上で昼夜二回にわたり模範布教を行っている。翌々年の明治十年には真言宗ではじめての「安心書」である『密宗安心鈔』が出版された。これは一般大衆むけに真言の宗旨をやさしく説明した宗旨案内のようなものである。  すでに明治七年には、「三条教則(さんじょうのきょうそく)」に反しない限りで各自の宗意を布教することが認可され、真言宗としても説教布教をおこなう必要にせまられていたわけである。

 さらに明治十一年には、真言宗ではじめて歴史的な「第一回布教会議」が開かれた。この会議で初めて布教方法の統一、「大師和讃」、「在家勤行式」の決定がされ、この頃には全国を四大教区に分け、それぞれの教区に巡回布教師が派遣されるようにもなっていた。

 明治維新の廃仏毀釈の嵐の中で、とにもかくにも状況をのりきろうとした教団は、新義派と古義派がともかく一つになって外にあたってきた。しかしようやく時代がおちつくと、両者のセクト争いはいよいよ表面化、明治十一年「新古分離 各派別置管長制」を決定した。しかし政府がこれをゆるさなかったためいたしかたなく両派は、明治十二年十一月、東京・霊雲寺において「大成会議」を開き新義派、古義派合同のもと近代真言宗として出発することを決議した。明治十二年の大成会議体制は、東寺を新・古合同の総本山とし、同寺住職を「長者」とし「真言宗管長」とした。この制度は明治二九年の醍醐派の分離独立、三二年「新古各山分立別置管長制」をとるまでの二十年間続いた。

 その意味でも明治十二年の大成会議は、その後の近代真言宗の組織的な機構をほぼこの時点でそなえたことで、真言宗の"近代化"ともいうべき重要な会議であったが、この会議の議案の第一号に「布教の統一」があげられていることからも、当時、真言教団がこの問題をいかに重要視していたかが理解できる。こうして新しく東寺に作られた新義古義合同法務所には布教課が作られ、布教師が全国を巡回するようになり、近代真言宗の布教制度はこの時点でほぼそなわった。

 そして二三年には、それまで警察の許可が必要だった説教、布教がその必要なしとされ、ようやく本格的な真言宗の布教時代がはじまっていく。

 二四年には北海道、さらには沖縄と真言宗の布教制度の確立をみるにいたった。

 二六年に、「真言宗自治布教条例」が発布され、真言宗の布教制度はここにいちおうの展開をみるにいたったのである。

※ここまでのまとめ

  明治2年 真言宗 高岡増隆盟主となり「仏教各宗同盟」発足 全国へ「勧誡師」を派遣し僧侶、寺院の神官、神社への寝返り阻止を図る。

  明治5年 神仏合同 大教院が東京増上寺本堂に設置され、全国へ教導職が天皇の推戴教化の為に派遣される 薩摩藩士増上寺本堂放火全焼

  明治6年 三条の教則についての各宗布教自由許可

  明治8年 神仏合同大教院 廃止

  明治8年 真言宗大教院 設立許可され東京芝・真福寺に設置 大衆布教の必要が大いに生ずる

  明治8年10月 山本寂明、大衆布教の模範講義に高野山へ一カ月間招聘さる

  明治10年 真言宗最初の在家教化資料 密宗安心鈔 発刊

  明治11年 真言宗第一回布教会議開かれ 布教方法の統一 大師和讃 在家勤行式 が決まる

  明治11年 新義古義独立申請を政府不許可

  明治12年 東京・霊雲寺にて新義古義大成会議開かれ、近代真言宗発足 東寺を新古合同の本山に 同寺住職を長者として管長とすると決定、明治32年まで続く

  明治23年 政府「布教伝道の自由」発布 警察の許可を不要に

  明治25年6月 山本寂明 遷化 八十四歳