− 真言宗中国開教史(二) −
真言宗布教制度の確立と日清戦争・従軍僧
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 従軍僧の出発―京都駅頭の風景 ■

 日清戦争が始まった年の明治二七年十二月十六日午後四時、この日夕景、京都駅駅頭は異様な風景であった。

 真言宗はじまって以来、いやもしかすると、日本仏教千二百年、始まって以来はじめての「従軍僧」として異域の戦場へおもく人、いや武蔵坊弁慶だって従軍僧だったと思う人、そしてそれを送る人、あまたの野次 馬の介。明治二七年十二月、寒い京都の夕暮れであった。

 「此の日一行 諸氏の出て立ちは、各自手に錫杖を持ち身に「ラントセル」に類せる柳コーリを負ひ、黒素絹に金襴の輪袈裟を着し、各宗一定の帽子を戴きたり、其異様な行装なる 恰も昔時の弁慶を 今日に見る如くなりし
 この日各大本山 並みに法務所役員及び信徒等 無慮数百人、数流の旗を押立て徒歩見送りて 七条停車場前 菊岡屋に到る。一行の同所に着するや臨済宗の慰問使 是亦学生有志等数百人に送られ、天台宗の同行者は比叡山を発し小蒸気船にて京都に着し 会せられたることなれは、サシモ広き停車場も 立錐の地なきまて混雑せり、ヤガテ一行はこれ等数百の見送の人々に別れを告け 汽笛一声神戸へ向け発錫せり」(密厳教報、一二六号)

 真言宗特許従軍師 和田大円、真言宗軍隊慰問戦死者追弔師 山懸玄浄、岩堀智道、五十嵐光竜、同随員岩佐大道ら五名と天台宗(二名)臨済宗(四名)の従軍僧の出立の風景であった。

 一行のうち和田大円は、真言宗の機関誌として『密厳教報』(明治二二年七月創刊、)についで古い『伝灯』を明治二三年創刊した人物で、早くから活字による布教活動に従事してきた。山懸玄浄は高野山光明院住職、この人もまた戦争勃発とともに国内に送られてくる清国人捕虜の救済活動に早くから従事していた。

 岩堀智道は東京にあった『密厳教報』社の主筆、それぞれ年来真言宗の布教活動の第一線に従事してきた人物であった。

 この一行に一人随行員として参加した岩佐大道は、東京牛込弁天町多聞院の当時住職で、この頃布教師として宗内で頭角をあらわしていた人物だった。不本意ながらも彼が「随行員」の資格で渡清する一月ほど前、彼は東京に教団本部から独立して布教活動にあたる「自治布教」の寺院同盟を設立している。この同盟は規約の第一条に「東京十五区を通し各区に固定の教場を定め連月二日昼夜 必ず教莚を開く事」を決めている。いわば宗内で最も熱心な布教師の一人であった。

 とにもかくにも、真言宗から最初の正式な従軍僧が出発したのは、「昔時の弁慶」のようなスタイルで和田大円等五名が京都をたった明治二七年十二月十六日のことであった。この五名の従軍僧の派遣は、時の真言宗が各宗派に謀って、各宗連名で大本営に申請認可されたものである。

 ところがそのしばらく前、たった一人で、大本営に従軍願を出した男がいた。それが先の岩佐大道である。だから真言宗で史上初めて従軍僧になるため、具体的な行動を起こしたのは、この岩佐大道であるといえよう。

 従軍僧の派遣は、実は開戦直後の九月頃から他宗派ではあったから、真言宗の場合はむしろおそかったといえる。岩佐大道はそういうことががまんできない男だったらしい。そういう立場で宗団を批判する意見は早くからあった。

  「宗務の当局者は(中略)一宗代表の僧使を朝鮮に派遣し軍隊慰問より 他日教線拡張の設計を為さしめざる(中略)消極の一点張りは宗略の採らざる処 須らく臨時の大活断を与へよ」(密厳教報一二一号)

 という意見は宗団機関誌の論調であった。この時代、政治の当局にいる人間よりも、外にいる人間の方がどうも過激であったようだ。先述の国内いたるところで行われた戦勝祈願法要にしても、たしかに宗団からの指示はあったが、むしろ宗団当局者の方が煽られているようなありさまであった。

 岩佐大道の従軍願も、すでに宗団当局はこのことで政府に対して運動中であったのだから、あへていえば彼の個人プレーでもあった。この人物、しかしとてもそんななまぬるいことではガマンできなかったのだろう。この当時の典型的明治人というものは、既してこういうタイプの人物が多い。こうと思ったことにはがむしゃらになる。

 それにしても、これほど一人でがんばっていた人物を正式代表としてではなく、ただの随行員にしてしまったのはどうしてなのだろう。あるいは年齢的なこともあったのかも分からないがその点不明である。

 吉田久一氏(日本社会事業大学名誉教授 1915〜2005)によれば「従軍慰問としては各派中でも特に真言宗の活動が注目される」(『日本近代仏教社会史研究』)としているが、他宗派の従軍僧たちが明けても暮れても駐屯軍司令部とか、病院のあいさつ廻りをしている中で、後年、吉田氏によって「注目」された活動を起案したのは、実はこの少々でしゃばりの岩佐大道であった。だからうがった見方をすれば、そういう頭の切れるところが、宗団当局や他の従軍僧たちからきらわれたのかも知れない、たぶんそうだろう、宗派、宗団にはそういうところが今でも山のようにあるから。

 というわけでこの時の五名の従軍僧の派遣は、宗団当局が申請した四名とその前に申請していた岩佐の、いわば西と東の合流部隊のような性格を持っていた。

 「真言宗派遣従軍僧」決定までのいきさつをまとめておくと、次のようなものであった。

 明治二七年十一月二六日、真言宗長者 高志大了は、臨時告示で従軍特使派遣の意向を、はじめて明らかにした。これをうけて真言宗の各派門跡座主は、「緇門の徒一蹶憤然宜しく適任の者を選抜渡航せしめ」と末寺に対して布告。

 泉涌寺長老・鼎龍暁、勧修寺門跡・釈内海寂らが僧侶の従軍の件を「各宗協会」へ提案し満場一致でこれを決定。釈内海寂と村田寂順(天台宗妙法院門跡)が広島の大本営で三名(真言、天台、臨済各一名宛)の従軍僧の許可を得る。

 各宗派が出した正式の願書は十二月二七日づけで、これの大本営の許可は十二月三十日付けになっているから岩佐らの十二月十六日の出発は、先行き正式な許可をもらう見込みか、あるいは当局との何かの口約束で出発したものとおもわれる。正式な許可が下りた真言宗での一人分の従軍僧に和田大円をあて、山懸、岩堀、五十嵐らに「従軍慰問戦死者追弔使」という仮の名称をつけて出発させた。

彼らの任命通知書は右のようになっている。

 岩佐等とこの時同行した各派の従軍僧の氏名は次のとおりである。

  天台宗 従軍僧 大照円朗
        慰問使 琳伽覚定
  臨済宗 従軍僧 原円応
       慰問使 坂上宗詮、円山元魯、日吉全識

 この時兵庫県庁が彼らに発行した旅券は右のようなものであった。

 裏面 英文
 訳文 該員前徃大朝鮮国並大清国
     任憑旅行無阻如有緊要事即請沼途各官加意照粁善為保佑

 また和田をはじめ天台・臨済の従軍僧三名が大本営から受けた特許証は次のようなものであった。
面 表

面 裏


 正式な従軍許可証を岩堀等「慰問使」がもらって「従軍僧」となったのは、朝鮮に着いてからである。その従軍願は次のようなものであった。



こうして冬の凍てつく大陸へ旅立った。