− 謎々!! 平塚大空襲と福島原発 −
2012年10月26日 住職 松下隆洪


 米軍による日本・本土空襲は、日本全国どこでも全く予知不可能な、青天の霹靂のような、奇襲攻撃で、住民はただ逃げ惑うしか対処の方法は無かった。母親から、その夜がどんなに恐ろしい一夜だったかは聞かされていたが、米軍空襲を事前に予知することなど、当時の庶民には考えもつかないことだったから、「いよいよ、やっぱり、平塚にも、爆弾が落ちてきた」と母は話していた。

 だけど、おかしい。一部の軍人あるいは官僚は、実は空襲の日程を知っていたのではないだろうか。証言もある。それをなぜか、わざと住民に周知しなかったのではないだろうか。このような恥ずべきことがまさかおこなわれていたなどと、私もいくつかの資料を読むまで思いもよらなかった。しかし、どうも事実は違うらしい。つまり一部の人間は米軍空襲の情報を毎日、逐一探知・予測し爆撃の方面も知っていたらしい。平塚大空襲も含めてだ。

 昭和20年3月10日、10万人が殺された東京大空襲の前日、「授業が終わり、東京にある下宿先に帰ろうとすると、教官から「今日は帰らない方がいい」と引き留められた。なぜか、理由は告げられなかった。

 これは東京杉並区高井戸にあったアメリカの無線通信を専門に傍受する「陸軍特種情報部」に配属されていた通信兵の経験だ。教官の指示によりこの兵は一命をとりとめたと戦後、語っている(資料@「原爆投下 黙殺された極秘情報」松木秀文、夜久恭裕著 NHK出版 P23)。つまり軍と官僚の一部は東京空襲の情報を、日程まで事前に知っていたということだろう。知りながら市民には告知しなかったから10万人も殺された。一般人が10万人も殺されているのに、政府や軍幹部の死者が異常に少ないのはなぜなのか、おかしいではないか。この夜の東京空襲で宝善院の檀信徒は10人も死んでいる。(当院ホームページ、「宝善院戦没者氏名」参照)

 実は原爆投下さえ、その情報は投下の日程まで、支配階級の一部は承知しており、そのことを住民には知らさなかったなどという事実が、今になって赤裸々になってきた。この事実を、NHKが取材報道して、「文化庁」から優秀賞を受賞したという、それが前掲書である。恥の上塗りの上塗りに、重ね塗りをするというような話ではないか。

 「将校の家族はほとんどすべて郊外の安全そうなところへ疎開していた」蜂谷道彦著『ヒロシマ日記』「ボイス・オブ・アメリカ」は「特殊爆弾で広島を攻撃するから、非戦闘員は広島からにげていなさい」と放送があったのに逃げたのは軍隊だった。(『原爆投下は予告されていた』古川愛哲 講談社 P72)

 日本軍はここまで腐っていたのか、驚きを過ぎて絶望する話だ。

 「備忘録 大本営参謀 井上忠男中佐」に「特殊爆弾 V675 通信上 事前ニ察知スル 長崎爆撃前 5時間前」と記している。(資料@P183 V675とは原爆投下の為に飛来した気象観測機をさすコールサイン)これは日本軍の上層部のごく一部が長崎原子爆弾投下5時間前に、それを察知していたこと、しかし住民避難は指示しなかったとういう証拠である。

 資料@は昨年の福島原発事故と、広島・長崎原爆投下に対応する、日本軍と今の政府には共通点があるとして次のように述べている。少し長いが引用する。

 『(福島原発事故にたいし)政府が放射性物質の拡散予測システム「SPEEDI(スピーデイ)」のデーターを速やかに公開し、住民の避難に役立てなかったことは、原爆という危険が迫っていることを知りながらその情報を伝えなかったことと酷似していないか。(中略)常に被害の実態を過小に見積もり、炉心溶融(メルトダウン)もすぐに認めようとしなかった東京電力や原子力安全・保安院と、広島に原爆が投下されたあとも、それが原爆であると認めようとしなかった軍の指導者たち。政府が原子力災害対策本部の議事録をまったく残さなかったことと、敗戦が決まったあと、ほとんどの諜報記録が焼却され、責任の所在もわからなくなってしまったこと。そして繰り返された「想定外」の言葉。両者に共通して感じることは、いったい、国家が守ろうとしたものは何だったのだろうか、ということである。それは、当時の軍部にとっては、多くの国民の命を犠牲にして戦争を続けてきた自らのメンツであり、今の政府や東京電力にとっては、原発は絶対に安全であるとし、政官学が一体となって守ってきたいわゆる"原子力村の論理"そのものではなかったろうか。』