魚  山
 その地名の由来と、今後の交流を考える・・・
大谷大学教授 岩 田 宗 一

 ■ 京都と中国の魚山
 本年(1996)3月末から4月初めにかけて、天台宗声明家の方々と一緒に、中国山東省東阿の魚山を訪ねました。そのご報告を兼ねて、「魚山」について書かせていただきたいと思います。
 この「魚山」は、日本では良忍上人(1073〜1132)によって声明の道場とされた京都・大原の来迎院や勝林院のある三千院一帯の地を指しますが、同時に声明のことを、「魚山」とも云います。1238年に天台宗の声明家宗快が、声明曲の記譜上の原則(出音図[しゅっとんず])を示した自著を『魚山目録』と名付けているのを見ても、このころまでには大原と声明の代名詞として定着していたものと思われます。
 また、1496年に長恵が編纂した真言宗の基本的な声明曲集の巻末に「魚山芥(たいかい)集」とあるのをはじめ、その後、「魚山私抄」「魚山集」などの名称を持つ声明曲集が多く著されて来たところを見ますと、真言宗でも「魚山」が声明の意味で用いられてきたことが分かります。

 ■ 魚山の地名由来
 ところで、この「魚山」とは一体どういうところから来た言葉でしょうか。その答えは冒頭に書きました中国の地名にあります。この地名は中国の多くの古い文献に出てまいります。その中から数例を紹介しますと、三国時代(221〜265)のことを述べた「三國志」(晋・陳壽233〜297篇)の注釈書を補った杭世駿の文中に“陳思王が、かつて東阿を臨む魚山に登って誦経の声を聞いた”とあります。
 また唐(618〜907)の道宣篇の『広弘明集』にも“植がかつて魚山に遊んだとき、空中に梵音の賛を聞いた”と述べています。さらに、やはり唐の道世が著しました「法苑珠林」にも“陳思王曹植が魚山で空中に梵天の響きを聞き、これを模して梵唄を造って後世に伝えた”とあります。
 しかし、そもそも中国の地名「魚山」の名は何に拠っているのでしょうか。そのことについて「法苑珠林」や、宋代に法雲によって書かれた『翻訳名義集』などを総合してみますと、仏教の世界観と関係があるようです。即ち、世界の中心には須彌山があり、その廻りには九山八海がとりまいています。その中の第六の山を尼民達羅(にみんだら)または地持山といいます。そしてこの山の形が海中の魚に似ている、と言うのです。どうやら中国では、この尼民達羅を魚山と訳し、東阿県の魚の形に似た丘陵を魚山と名づけたと思われます。そして陳思王曹植の逸話と結びついて、中国梵唄(声明)発祥の地とされ、やがて梵唄(声明)の代名詞となっていったものと考えられるのです。

 ■ 曹植の読み方について
 なお、陳思王曹植(192〜232)とは、三国志の英雄曹操の第三子で曹丕(そうひ)の弟のことです。字は子建といい幼少から文才を発揮し、父曹操の寵愛を受けて幸せに暮らしていましたが、父の死後兄たちに疎まれ、転々と領国を移され、最後は陳で没しました。謐(おくり名)が「思」であるところから陳思王と呼ばれるようになりました。なお曹植はわが国では「そうしょく」と読まれることが多いのですが、「そうち」とした方が現在の中国語(北京)により近くなります。曹植は中国は勿論のこと、日本においても偉大な詩人として今日も尊崇を集め、また悲劇の王族としてしばしばその名が出てきますが、中国声明の始祖として彼の名が登場することは、現在の中国でも極めて稀であります。それどころか、この曹植と魚山を結びつける遇話は、単なる伝説としてほとんど顧みられていないのが現状です。その中にあって「東阿市博物展示館」副館長の劉玉新氏ら仏教音楽研究の立場からの研究に大いに敬意を払いたいと思います。

 ■ 今後の交流に期待する
 山東半島から少し内陸に入った済南市から南西に長清・平阻を通って黄河を渡り、東阿市から南行したところに小高い丘、魚山がありました。丘の東には魚山を迂回するような黄河の流れが遠望され、北から西にかけての一帯には田園の中に村落が点在していました。丘の麓中央に小さな横穴があり、一九九七年の調査時にはその中に曹植の棺と埋葬品が納められていたと言います。発掘品は北京博物館に運ばれ展示されましたが、現在は東阿市に戻され二 〜三年後には墓前に建つ展示場に入るとのことであります。ただ、この丘が長年に亙る採石のために大規模に削り取られている姿には心を痛めずにはいられませんでした。
 日本においては、「魚山」の名には重い意味が込められていると言わなければなりますまい。天台宗のみならず、大原の地と声明曲集に冠せられている「魚山」の出拠を確認し、中国の、「魚山」の地を訪ねることは、諸宗派の声明家にとって大きな課題でもありました。事実、真言宗の調査団も今月(六月)出発されると聞いています。このようなわが国の仏教界からの訪問が、中国側の魚山の再評価に繋がればと思っています。
(本原稿は大阪市十三の真教寺・浄土真宗本願寺派の「寺便り」(H8,8,1)に掲載されたものを同寺ご住職と、岩田先生のご厚意により再録させて頂きました)