曹植の「魚山聞梵」について
 曹植の作詩と仏教の影響
劉 玉 新 (中国山東省魚山博物館・副館長)
翻訳 加藤 宥英(最明寺住職)&刊行会事務局

 ■ 曹植を伝える文献
 曹植は東阿で三年間藩王であった。死後、彼の亡骸が風光明媚なこの山の西麓に葬られたことは周知のとおりである。彼は東阿にいる間に仏教と深い縁を結んだのであるが、このことは民間に広く伝えられたのみならず、沢山の史料にも記載されており、つぎのような文がみえる。

 「陳思王が魚山に登り、東阿に面したところをながめているとき、にわかに山の崖のほらあなから仏典を吟詠する声が聞こえてきた。その声は明るく、遠くまで響き、峡谷を共鳴させるほどであった。彼はその声に仏の魂があることに気が付き、粛然として、襟を正し、じっと立ち止まって恭しく聞いた。そして吟詠の声にならい模倣した。いまの梵唄はみな曹植が書き写し、(詩文をつけて)創ったのである。」(杭世駿『三国志補注』の『異苑』による)

 「曹植は仏典を吟詠するときには、いつも意味を噛みしめながら、流暢に詠い、仏教悟道の極に達した。その声は自然に七種の声調を帯びてそのまま曲になったので、世間の人々は感嘆しつつ、それにならった。曹植が魚山を観賞していたとき、空中のどこからともなく梵音を聞き、それを、模倣しつつ讃唄を創作して、後世に伝えた。」(唐・道宣『広弘明集』による)

 「陳思王曹植は魚山を観賞していたとき、にわかに、空から梵天の響きが聞こえてきた。その声はすっきりしていて、あかぬけており、しかも哀調を帯びており、彼の心を打った。曹植は暫く専心してその声を聞き、梵音の音節を真似て梵唄を創出した。そして詩文と音をつけて後世に伝えた。」(唐・道世『法苑珠林』第三十四巻による)

 以上の記載は、内容の上では大同小異であるが、どれもひろく、長く伝えられてきた。『東阿県誌』では、曹植の"魚山聞梵"という物語を"東阿八景"の一つにし、詩文をつけて、つぎのように述べている。

 「宣房の要塞には吾山があり、山上には陳思王の墓が横たわっている。万籟息む時、梵仙の動き、あたかも峡谷、天然の声を伝う。」と。

 ■ 中国詩文への影響
 曹植の"魚山聞梵"という物語は荒唐無稽であると思われるが、反映されている思想内容から考えると、仏教音楽の梵唄と一定の関連があるではないかと思う。なぜかというと、彼が後半生で創作した文学作品を遡及してみると、すこぶる人口に膾炙された楽府体の詩歌には、いたるところに仏曲に影響された跡が見られるからである。だから、曹植は韻律詩の先祖であると言われるが、私は賛同しかねる。ただし、曹植が仏教音楽を利用し、梵唄を創作し後世に伝えたことが、韻律詩文に一定の影響を与えたという点は、肯定すべきであろうと思う。
 梵唄は仏教の讃歌である。これについて梁・釈慧皎『高僧伝・経師論』では、次のように述べている。

 「インドでは、仏典を吟詠することを『唄う』というが、我が国に伝来して後、われわれはこれを『転読する』といい、讃歌を梵唄と称する。以前は(世間の人々は讃歌するときにはほとんど)音韻を管弦楽器によって表現した(注1)」。
また、同書では
「仏教の伝来以来、梵語で書かれた仏典を漢語に翻訳したものは数多く存在したが、梵音の『音訳』者はすくなかった。(なぜ翻訳に較べて音訳が遅れていたかというと)、梵語が偶数的な音律を有するのに対して、漢語は奇数音律を基調とするので、音訳上の困難をもたらしていた。だから、もし梵音をもって漢詩を吟詠すると音が長くなり、詩が短くなる。逆に、漢曲をもって梵語を吟詠すると、音が短く辞が長くなる。ところが、天賦の語感とあつい信仰心を有していた魏の陳思王(曹植)は魚山で仏のことばを感じ、『瑞応本起』という文章を書いた。そのなかで、彼は梵音を適切に削除し、発音の比較的容易な漢語に訳することに成功した。それが梵語の学習書の模範として普く世間に流布するところとなった。爾後、梵音の伝播者の人数は三千余人となり、かれと意気投合するものも四十二人がいたという。それから、派生したさまざまな派も陳思が先祖であると言い、かれが仏と通念し、仏の意識を感知しえたといった…昔は諸天を讃唄する際には、すべて韻律を管弦楽器の演奏によってのみ表現したが、それは当時の慣例にはなかったので、辞と曲との調和こそが、ふさわしくよいことである。(だとすると)梵唄の起源はやはり陳思からであろう。」

 さらに、『太子頌』及び『頌』などの詩文において、陳思王は仏の意志を悟り、梵音に基づいて音を創りだした。その韻律の流暢にして抑揚神妙なること、強烈な風格において、世間を驚愕させたと伝えられているが、これは誇大な言い方であり、あまり証拠がないように思われる。たぶん僧侶たちの附会ではないかと思う。

 ■ 曹植の意図
 それでは、曹植は仏教の信者ではないのに、なぜ仏曲を創作し得たのであろうか?
 はじめに仏教は一つの文化として、我が国の伝統文化に大きな影響を与えた。したがって曹植も仏典の影響をうけて、韻律を利用し詩文を書いたとしても、あながち不思議なことではないと思う。
 その代表的な詩句とも言えるべきものを挙げてみよう。
 「孤魂翔故域、霊柩寄京師」(『贈白馬王彪』)
 「泳魚潜緑水、翔鳥薄飛天」(『情詩』)
 「始出厳露結、今来白露稀」( 々  )
 「凉風飄白日、忽然帰西山」(『贈徐干』)
 「高台多悲風、朝日照北林」(雑詩之一)等の詩句は、音節鑑鏘、抑揚頓挫、平仄調諧厳然律句と評せられよう。

 孫昌武先生は『中国古典文学における仏教影響の研究』という文章のなかで、
「中国の詩文と仏教の偈頌の間には、相互影響の関係が存在している。偈は、もともと中国の詩文形式を借用して翻訳された(ので、詩文の影響を受けたはずだ)が、外来の経典(外来文化)として、その韻律およびリズムなど表現方法において、詩文とは異なる。このような相違点がまた中国詩文の創作、詩文の風格などの手法に一定の影響をあたえたのである。(注2)」と述べておられる。

 范文蘭先生も「文学史において、古体と律体というのは二つの大きな分野であるが、建安から南朝にいたって、古体から律体への転変期を迎えた。それは梵音の影響下に、声律に対する研究及びその運用に成功したからである。これは、とりもなおさずインド声明論が中国文学上にもたらした一つの貢献であろう。(注3)」と語っておられます。

 したがってこのような観点からいえば、曹植が梵唄を利用して仏曲を創作したということは、韻律詩文の始まりを引き起こしたと言えよう。
 曹植が魚山で梵天の声を聞いたことが韻律詩歌の濫觴(らんしょう)を引き起こした。
 曹植の韻律詩文の創作過程は、まるでかれの一生を書き移したように見える。(もしそれが前、後期と分かれるなら)前期には、曹植の詩文は「噴りと熱情に満ちて、生活を謳歌していた」が、後期に入ると、「情緒が愈郁、意気消沈、素直に胸の奥を述べ表している。」。そして、手法も次第に成熟し、抑揚頓挫、朗々と流れる韻律詩文の創作に至る。とくに、彼が東阿王に封じられてからは、生活上余裕ができ、政治上でもいくらか安定を得たので、詩文創作も新たな革新と発展の段階に入った。『箜篌引』、『薤露行』、『吁嗟篇』など雑詩の二、三、四、等の詩が相次いで書かれたのも、以上のような環境と条件によるものである。
 曹植は奔放不羈にして、豪磊な性格の人物である。かれは何度も政治的被害を受けて、囚人のような待遇に置かれたが、活発な思考を持ち続けた。彼が友人である揚徳祖に送った手紙の中に、次のような内容が書かれている。

 「私は現在、薄徳にして不運にも一侯王の身分に甘んじてはいるけれども、いつかはきっと国王になってやるぞという気概をもって生きている。もしその日が到来したならば、その功徳を遍く国の全ての民百姓にまで分け与えよう。そのとき私の功績は玉石の輝きを放ちながら未来永劫に記録されるものとなるであろう。(それにつけても今の自分は)ただ筆墨によって詩作を続けているのみ、こんなことでどうして国王に成り得るであろうか!

 今のままでは世間に私本来の面目を認めさせることはできないではないか。もし、認められないのであれば、私の目指すべきは庶官の実録を用いて、世間の利害得失や善悪、仁義の道理を明らかにして一家の言と成し、之を名山に蔵し、以て同好に伝えんとす。之を皓首とせんとするに非ずして、あに今日の論とせんや!私の功名未だしといえども、わたしと志を同じくする友人には、私の願いがわかるにちがいない。死して後止むほどの不退転の決意をもたずして、どうして今の世を論ずることができようか!なおまた、私は自分の主張を容易に放棄することができないでいる。現在、私の手になる小さな辞賦の小道は、まだその大義の発揚をみていないけれども、将来には必ず明らかになるであろうと。(注4)」
 当時ちょうど仏教が伝来し、世間に広がりつつあった頃で、曹植は「私の本来の面目は未だ果たされず」という状況であったので、どうしても文学創作上において新しい目標を創り出す必要があった。まさしく王国維先生がおっしゃっておられるように、「漢以来、儒家はただひたすら古い思想にすがりつき、それを守ろうとしていた。仏教伝来当時、すでに我が国の思想は凋落しかけていた。当時、学者たちはそれを見て、まるで飢えたる者が食物を得、渇いた者が水を得たようなものであった。(注5)」と論じておられる。

 このような環境下にあって、仏曲の出現は曹植の精神を爽にし、新しい創作への芽生えをうながし、彼は(清雅哀宛)の仏曲を梵唄とし、文を選び、音を制し、後世の形式として伝えた。曹植の「私の志向は遂行できず」という政治上の遺憾の要望が、かえって文学創作面でも新しく独特な見解を主張したかったのであろう。その結果として、梵唄が創られ、韻律の運用が後世に伝播されたことは、我が国の詩創作の分野においても、質的諸変化をもたらしたといえる。
注: 1. 梁・釈慧皎『高僧伝・経師論』
2. 『文学遺産』1987年第4期
3. 范文蘭 『中国通史簡編』第2編 255頁
4. 趙幼文 『曹植集校注』 154頁
5. 王国維 『静安文集・論近年の学術界』