「魚山聞梵」と「歩虚声」
 − 仏教と道教の曲譜は同一源流か ―
劉 玉 新 (中国山東省魚山博物館・副館長)
翻訳 東寺真言宗声明大全刊行会

 ”曹植”と”東阿”ということばを聞くと、自然に曹植が東阿県・魚山で梵音を聞いた”魚山聞梵”の物語を連想させる。この物語は、荒唐無稽な作り話であるとも思えるが、はんめん、曹植が仏教、道教に与えた影響ついて、熟考静察に値すると思われる。
 ”魚山聞梵”について、釈道世の『法苑珠林』巻4では、以下のように記載している。 
 「魏の時代、陳思王曹植は字を子建と言い、魏武帝の第四子である。幼くして、才能を表現し、十才にして早くも素晴らしい文章を書いた。それは、筆を執ればそのまま名文となり、少しも直すところがない。世事一般に通暁し、諸事万能の才を有していた。邯鄲の淳は曹植にいたく感服し、彼を今生の人に非ずとさえいった。曹植は経典を吟詠するとき、意味を噛みしめながら常に朗々と詠じ、仏教悟者の極に達した。その声は自然に七種の声調を帯びて曲になったので、世間の人々はそれにしたがい歌い始め、次第に世間に広がっていった。ある日、曹植が魚山を観賞しているところ、空中のどこからか梵天の響き声が聞こえてきた。その声は明るくきれいで、もの悲しく遠くまで響き、彼の心を打った。曹植は専心して暫く聞いていたが、身辺の侍者にはまったく聞こえなかった。彼は、その声に仏の意志があることに気付き、仏の理念に応じていたのである。彼はさっそくその音節をまね、曲譜に書き写し、梵唄の創作に踏みだした。その後、曹植はそれに詩文をつけ、さらに韻律を整理し曲譜にまとめ、世間に伝えた。(したがって)梵唄の開始は、曹植からである。その伝えられた曲譜は六冊になる」という。
 また釈慧咬の『高僧伝・経師論』は、次のように論じている。
 「仏教の伝来以後、梵語で書かれた仏典を漢語に翻訳したものは数多く存在したが、梵音の音訳者は少なかった。(なぜ翻訳に較べて音訳が遅れていたかというと)梵語が偶数的な音律を有するのに対し、漢語は奇数音律を基調とするので、音訳上の困難をもたらしていた。だから、梵音で漢詩を吟詠すると、音が長くなり詩が短くなる。逆に、漢曲を以て梵語を吟詠すると音が短くなり、辞が長くなる。ところが、天賦の語感とあつい信仰心を有していた魏の陳思王(曹植)は魚山で仏の理念を感じ、『瑞応本起』を書いた。そのなかで彼は梵音を適切に削除し、発音の比較的容易な漢音に訳することに成功した。それが梵音学習書の模範として、普く世間に流布するところとなった。爾後、梵音伝播者の人数は三千余人となり、彼と意気投合する者も四二人いた という。それから、派生したさまざまな派も陳思王が先祖であると伝え、彼が仏と通念し、仏の意識を感知しえたといった…それ以前、仏教音楽は専ら管弦楽器の演奏によってのみ表現されていたが、実は、辞と曲を適切に合わせることがふさわしく、よいことなのである。したがって、梵唄の始点は陳思からである」
 さらに、劉敬叔の『異苑』第五巻は、次のように述べられている。
 「陳思王は字を子建と言い。(ある日)彼が魚山に登り、東阿県の方角を観賞している時、にわかに、山崖の岩穴から、仏典を吟詠する声が聞こえてきた。その声は明るく、遠くまで響き、峡谷を共鳴させた。彼はその声の中に魂があることに気付き、襟を正し、じっと静かに立ち止まって恭しく聞いた。そして、たちまち梵音を模倣し、書き写した。今の梵唄は皆曹植が創ったものである。もう一説によると陳思王が山を観賞しているとき、突然、空中のどこからか仏典を吟詠する声が聞こえてきた。その声は明るくきれいであった。そこで陳思はその声を音訳し、これを仙人(仏)の声とした。道士はそれを模倣して”歩虚声”を作った。」
 『辞海』によると、”歩虚声”とは、道士が仏典を吟詠及び讃歌するときのアクセントで、そのアクセントはまるで大勢の仙人がおぼろに、空中を歩いていくかのようである、という。
 以上の記載から見ると、曹植の”魚山聞梵”ということについて仏教側は、曹植が「その音節を模倣し、曲譜に書き写し、梵音を創り出し、それに詩文をつけ、韻律を整理して、曲譜にまとめ後世に伝えた」とするが、道教側は曹植が「声を音訳し、これを仙人(仏)の声とした。道士はそれを模倣して”歩虚声”を作った」という異論である。
 梵唄とは「インドでは、仏典を吟詠することを”唄う”といい、わが国に伝来して後、我々はこれを”転読する”といい、讃歌する事を”梵唄”と称する。以前は、世間の人々は讃歌するときほとんど韻律を管弦楽器によって表現した。」(『高僧伝』第十三巻)という。
 また、任継愈は更に詳しく説明している。「”梵唄”とは、即ち『偈頌』であり、仏典によって創作された。それは、歌を歌う時にも使われ、これに韻律をつけ、管弦楽器の伴奏を加えた。このような形式は、仏典を普及することにおいて(役を果たして)、大勢の民衆を容易に引き入れた。したがって、”梵音の伝播者が三千余人”もいたのであろう」(『中国仏教史』第一巻)
 唐時代の詩人である張籍は、『送呉錬師帰王屋』という詩文中で「仙人の住む高台にいると、空中から”歩虚声”が聞こえる」と言い、王建も「道士は字を書く時気功を使用し、家の児童は筆を執って”歩虚辞”を書く」と言っている。 (『贈王処士』による)
 以上のことからも、曹植の”魚山聞梵”の物語は、仏教、道教に一定の影響を与えたと言えよう。死去した有名な学者欽立は『四声考』という文中で、「陳思王の”魚山聞梵”という事は、事実かどうか別にせよ、”歩虚声”における諸曲譜は、確かに東晋の時代に流行した。(そして、もう一つは)『異苑』において、曹植の”楽譜(曲譜)制作”と道士の”神仙歩虚声”とが同列に論じられていることに注意しなければならない。(なぜかというと)仏曲の”魚山十二調子”を調べてみると、その中の一つは”神仙調”である。たぶん、劉敬叔が言った”仙声”とは、これではないかと思う。だから、仏教と道教の”楽(曲)譜”は同一源流に属し、陳思王は、仏曲と道教(”歩虚声”)、双方の代表者であろう」と論じている。
 以上は曹植の”魚山聞梵”の部分的史料を整理したものであるが、史料欠乏のため、十分には論じられていないと思うので、ご指摘ご批評をお願いいたしたい次第である。