第三回「環勃海考古国際学術討論会」論文
『蘭陵王入陣曲』の疑問に対する解釈 (本文の原題による)
中国 馬忠理

(三)蘭陵王の舞曲は「沙陀調」ではない
 蘭陵王の舞曲について、日本の田辺尚雄氏は「この舞踊は中国から伝来したものではなく、それは林邑僧仏哲によって伝えられたのであり、林邑八楽の一つである。胡服を着て、インドの面具を被り、その舞踊の音階はインド系の沙陀調とするものである」(41)と主張されている。

 (1)唐玄宗の禁演と「林邑八楽」の関係について  (林邑(りんりゅう):古代ベトナムを指す)
 日本史には仏哲が天平八年(736年)、「林邑八楽」を伝来したと記載している。それは中国の唐玄宗の開元二十四年にあたる。
 開元年代に、中国では林邑八楽と係わる次のような事件があった。「歌舞の戯に、大面・抜頭・踏揺娘と窟壘子があり、玄宗はそれをもって正声に非ずとし、教坊に置き、もって禁中と処す」(42)という記載がある。
 記載には、抜頭は西域から、踏揺娘は北斉から伝来したものであると書かれており、また皇帝が勅令して、宮外で蘭陵王(大面)などの歌舞を禁演したことをはっきりと示している。『唐会要』三十四にも「散楽の巡村することを禁ず」と記載されている。唐玄宗が禁演した四つの舞踊のうち、蘭陵王・抜頭・踏揺娘の三つが「林邑八楽」と関わっており、故に、禁演は八楽の東伝と深く関連する歴史的背景を持っているだけでなく、蘭陵王の東伝を研究する際のポイントにも成り得ると筆者は認識している。
 周伝家先生は『戯劇論壇』に発表した「戯曲の起源と形成」(43)において、日本の高楠博士が「準林邑楽」として認定した蘭陵王舞を、唐の舞楽と修正すべきだと述べたのみならず、八楽の「抜頭」についても、それは日本に伝来した唐代の舞楽であると強調している。
 東京帝国大学の塩谷教授は蘭陵王・抜頭と踏揺娘などは唐から伝来したことを認めている。王国維先生は『宋元戯曲考』において、次のように述べておられる。「唐に至り、歌舞戯というものは初めて多くなり、うちに、前代に基づいたものもあるし、新しく創られたものもある。たとえば、1、代面(大面)、『旧唐書』音楽誌一則…2、抜頭、『旧唐書』音楽誌一則…」(44)。として、大面と抜頭は唐楽であり、かつて唐の時代に(その音楽が)すでに流行していたと指摘されている。故に、これはまず明らかにしなければならない問題であると思う。
 八楽の中に、西域あるいは天竺から伝来したものがあるかどうかという問題は、舞踊の起源問題でもある。しかしながら、『北斉書』・『北史』によれば、「蘭陵王入陣曲」は北斉の河清三年に創作されたものであり、外域から伝来したものではないことは明らかである。このことは、唐の『楽府雑録』、『教坊記』、『隋唐佳話』、『通典』などの書籍にも記載されているのである。

 (2)「沙陀調」の起源について
 任半塘先生は日本の田辺尚雄先生の「蘭陵王舞曲の音階はインド系の沙陀調」という見解に賛同している。そこで沙陀調は唐楽系であるのか、インド楽系であるのかを調べて見よう。

 イ)沙陀族と沙陀調
 沙陀調とは、沙陀族の人々が歌う曲調を言うはずである。『新唐書』には、「沙陀、西突厥の別部、処月の種なり。…処月は金裟山の陽におり、蒲類の東、沙陀を名として大跡あり、故に、沙陀突厥と号するという」(45)記録がある。
 その場所は今の新彊のパリクン(芭里坤)辺りである。「沙陀」は漸次にその民族の姓となり、唐の龍朔の初期(661-663年)、処月の酋長沙陀金山が唐に帰化し、また功績もあるため、右驍衛大将軍・蒲東都督ならびに張掖公に任命されている。
 彼の息子の沙陀輔国が官職を嗣ぎ、開元初期さらに左羽林大将軍永寿王に昇進した。また沙陀尽忠は左金吾大将軍正酒泉公となり、その孫沙陀赤心は通年間、唐を助け、反乱鎮圧の功績があったため、金吾将軍に任命されただけでなく、李という国姓を賜り、名を国昌とした。彼の息子李克用は、乾符五年と中和三年に皇帝を救い、そのため雁門節度使・河東節度使と晋王に次々と任命された。
 唐は唐哀帝天祐四年(907年)、後梁に滅ばされたが、李克用、李存勗親子は引き続き唐の天祐年号を使用し、後梁の朱温と十六年も戦い、ついに後梁を滅ぼして、再度、唐という国を建てた。すなわち後唐である。その後、また石敬塘が建てた後晋と劉知遠が建てた後漢があり、これらの国の皇帝は皆、沙陀族の人である。
 このように歴史的、文化史的にも沙陀族は中国の少数民族なのであるから、沙陀調もインドの音楽系ではなく、唐の楽系であると見るべきではないだろうかと思う。

 ロ)勅勒・高車族及びその歌舞
 戦国と秦・漢時代に大漠の北部に住んでいた丁零民族は、南北朝になって、その呼び名はそれぞれに分かれた。
 北の人々は彼らを勅勒族と呼び、南の人々は彼らを高車人と呼んでいた。「鮮卑人は複雑な民族である。…拓跋鮮卑は(258年)に盛楽(今の内モンゴルの土城子)に入る時、…彼らの中には慕容氏などの東胡の子孫がいるばかりか、また匈奴・高車・柔然などの人々もいた」(46)とある。
 ”拓跋鮮卑”は中国の北方を統一した後、征服した高車人を内地の平城北側に移し、首都を守るように安置した。また大量の騎兵を強制徴用し、戦場に送った。「高車人は名騎と号する」(47)とは当時の実情を伝えている。「殿中の武士」も、勅勒(即ち高車)人の諸部から選ばれいた。(48)北朝墓で発掘された盾を持つ武士は、鼻が高く、目が深く、髪が曲がっているので、逞しい「殿中の武士」に当たるのだろう。(写真の8)
 東魏と北斉時期の軍隊は六鎮の流民を主体として構成されたものである。彼らはすでに五十余年間、北魏孝文帝の改革(漢化)政策に影響され、暮らしてきた。彼らの中に、漢化された鮮卑人と、先ず鮮卑化され後に漢化された丁零・勅勒・匈奴・鳥桓等の「胡人」が含まれていた。
 興和三年(541年)、柔然族に追われた去賓は、西部の高車族を連れて、東魏に避難したが、高歓から高車王・安北将軍と肆州刺史に任命されたことがある(49)。高歓は「鮮卑化」された漢人であり、そのほか、高乾と高昂が統率した軍隊も漢人の軍隊である。
 有名な勅勒族将軍斛律金と斛律光親子は、かつて東魏と北斉に奉仕した。『北史』・『北斉書』によれば、武定四年、斛律金は高歓に従い、西征して、長い間西魏の玉壁を攻撃したが、奪取できず、高歓が病気となったために、帰路についた。「この時、西魏は神武が矢に当たったという。神武はこれを聞き、勉めて座り、諸貴と会い、勅勒歌を斛律金に歌わせ、神武は自らこれにこたえる」(50)、その詩は「勅勒川、陰山の下、天は穹廬に似て、四野をかぶり、天は蒼蒼、野は芒芒、風吹いて草低く牛と羊が見える」(51)という。これは勅勒民族が残した、これしかない一曲の歌である。
 北魏文成帝の時(452−465年)、「五部の高車が集まり、天を祭る。民衆は数万人に至り、馬を走らせ、牲口を殺す。歌いて遊ぶ」(52)、「男女の大小がなし、皆集まり、平吉の人は歌い舞いて楽しむ」(53)という記載がある。したがって勅勒族(すなわち高車族)は歌と踊りが好きな民族であったと見るべきであろう。

 ハ)沙陀族と勅勒・高車は同祖同源である
 北魏の時に、北部に新興した突厥大汗国の祖先は、鉄勒族の一部である。突厥文字の石碑「泌伽可汗碑」に、「九姓の鉄勒は、我の同族なり、」と書かれている。「鉄勒の祖先は先漢の丁零であり、魏晋北朝の勅勒である。…突厥は鉄勒の一つの部落である」(54)
 突厥は隋の初期には、東と西の突厥に分かれ、唐の新彊パリクン地区に居住する西突厥の一部は「沙陀突厥」と呼ばれていた。故に、唐の沙陀突厥は即ち沙陀族であり、この民族は高車・勅勒・鉄勒族と同じように、早期の丁零族を起源としているので(55)、これらの民族は同源・同種・同祖の民族であるといえる。
 彼等の風俗習慣・言語文化および歌舞音楽は同じか、あるいは類似しているはずである。そのために、勅勒曲調と沙陀調は同じ曲調であると考えざるを得ない。『旧唐書』にも、高昌に「文字あり、書計も知り、置く官職も中国の号を使う」(56)と記録している。
 沙陀突厥地域の吐魯番で発見された唐の文物には、大量の儒家経典と史書があった。たとえば、『毛詩』、『鄭玄註論語』、『偽孔伝尚書』、『孝経』と『急就篇』、『千字文』、『典言』、『晋書』及び『針経』等である(57)。これらの書籍と新彊アスタナの唐武周時代の墓にあった獅子舞、大面と踏揺娘などの戯弄土偶は、唐の時代、西域は中原文化の影響を深く受けていたことを証明している。もちろん、音楽と舞踊の交流及び融合も疑いなく広く行われていたであろう。
 北斉と北周が芒山で戦った時、蘭陵王高粛の所属する左、中、右三軍には(58)、勅勒歌を歌った斛律金の息子や、右軍の斛律光とその部下の勅勒族武士が入っていた。高粛列伝に「大捷、武士はともに歌う。これは『蘭陵王入陣曲』なり」と記載されているが、それらの武士の中には当然勅勒族の武士も含まれていたであろう。故に、蘭陵王曲は勅勒調であり、即ち、唐と日本の奈良時代以後、それは沙陀調と呼ばれた曲調でもあるのである。

 ニ)沙陀調と沙陀力、沙陀について
 『隋書』に次のような記事がある。
 開皇二年沛国公鄭訳が蘇祗婆に七声を聞く。蘇氏は「一は沙陀力、華には平声と言い、これ即ち宮声なり。二は鶏識、華には長声と言い、即ち商声なり。三は沙識、華には質直声と言い、即ち角声なり…」。蘇氏は亀の人である。天和2年(567年)、彼は北周の武帝の突厥皇后に従い、宮殿入りした。(59)たとえこの宮声沙陀力が沙陀調と関わりがあっても、それは突厥系の音楽であり、決してインドの音楽ではない。
 さらに「沙陀」二文字の梵文訳は有情、衆生、世俗人などである。その意味はインドの龍王舞と中国の『蘭陵王入陣曲』と何等関係もないものである。

 ホ)日本の古文献に記載された沙陀調について
 日本の『古事類苑』に「智仁要録」、「楽家抄」、「教訓抄」、「続教訓抄」など十冊の舞楽関係の古書が記録されている。これらの古書には、蘭陵王、羅陵王、高陵王などの曲はみな中華調、壱越調、沙陀調として記録されている。源光の『大日本史』巻347、礼楽14によれば、「本朝に伝来した楽制は五音六律なり、…けだし、初めて隋唐より受け入れ、歌調となす。およそ楽家に伝えた五調は、一、壱越調、二、平調という」そのために、十冊の古書に記載した蘭陵王の曲譜は、すべて唐楽であるといえる。
 日本の文献に記載された沙陀調の変化を見よう。『体源抄』十一之下に、「舞楽は古今の相異なるとこなり。古(いにしえ)陵王に入る時は沙陀調を奏し、今高野天皇(称徳)の時、改めて案摩を奏す」とあり、『教訓抄』には、さらに「羅陵王…沙陀調…昔入る時沙陀調を奏す。…高野の姫…この曲を愛し、常に御前に舞を詔する。…高野天皇の天平勝寳年間…この舞を勅定して…この曲をやめ、案摩を以て急吹して入曲とする。…濱主は旨を奉り…沙陀調を永止し、案摩の曲を用いる」と詳しく記録している(60)
 『智仁要録』と『龍鳴抄』などに記載された沙陀の変化状況もほぼ同じである。これらの記載はこの曲が日本に伝来して千年余りの間に、日本及び他の民族音楽や舞踊の要素と融合したことを具体的に表している。「黄」の変遷にもこれら点はよくあらわれている。この曲は武則天時代に作り出した二句の歌謡であり、後に「黄曲」と編纂された。唐宗時代の趙仁獎はこの曲をよく歌うので、「黄漢」とまで呼ばれるほどであった。しかし、この曲は「日本では『皇』となり、また一名『海青葛』とも呼ばれたが、その故は未詳である。また『金』とも呼ばれ、沙陀調に属す」(61)とある。
 このように「黄曲」は唐の楽であり、インド系の沙陀調ではない。これは『蘭陵王入陣曲』が唐の楽であり、インドの沙陀調ではないこととまったく同じである。日本『舞楽図』には蘭陵王の舞が有り、そこには「蘭陵王、唐大曲、一人舞」と注がある。
 要するに、現在日本の奈良で演奏されている蘭陵王、陵王、高陵王、羅陵王という舞踊は「林邑八楽」でもなく、「インド系の沙陀調」でもない。これらは唐から日本に伝来し、北斉の将軍蘭陵王高粛を歌う曲『蘭陵王入陣曲』なのである。
 以上が、筆者が多年に渡って考察した結果であるが、同学、同仁、諸兄のご指導ご賢察を願うものである。
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