日本史には仏哲が天平八年(736年)、「林邑八楽」を伝来したと記載している。それは中国の唐玄宗の開元二十四年にあたる。
開元年代に、中国では林邑八楽と係わる次のような事件があった。「歌舞の戯に、大面・抜頭・踏揺娘と窟壘子があり、玄宗はそれをもって正声に非ずとし、教坊に置き、もって禁中と処す」(42)という記載がある。
記載には、抜頭は西域から、踏揺娘は北斉から伝来したものであると書かれており、また皇帝が勅令して、宮外で蘭陵王(大面)などの歌舞を禁演したことをはっきりと示している。『唐会要』三十四にも「散楽の巡村することを禁ず」と記載されている。唐玄宗が禁演した四つの舞踊のうち、蘭陵王・抜頭・踏揺娘の三つが「林邑八楽」と関わっており、故に、禁演は八楽の東伝と深く関連する歴史的背景を持っているだけでなく、蘭陵王の東伝を研究する際のポイントにも成り得ると筆者は認識している。
周伝家先生は『戯劇論壇』に発表した「戯曲の起源と形成」(43)において、日本の高楠博士が「準林邑楽」として認定した蘭陵王舞を、唐の舞楽と修正すべきだと述べたのみならず、八楽の「抜頭」についても、それは日本に伝来した唐代の舞楽であると強調している。
東京帝国大学の塩谷教授は蘭陵王・抜頭と踏揺娘などは唐から伝来したことを認めている。王国維先生は『宋元戯曲考』において、次のように述べておられる。「唐に至り、歌舞戯というものは初めて多くなり、うちに、前代に基づいたものもあるし、新しく創られたものもある。たとえば、1、代面(大面)、『旧唐書』音楽誌一則…2、抜頭、『旧唐書』音楽誌一則…」(44)。として、大面と抜頭は唐楽であり、かつて唐の時代に(その音楽が)すでに流行していたと指摘されている。故に、これはまず明らかにしなければならない問題であると思う。
八楽の中に、西域あるいは天竺から伝来したものがあるかどうかという問題は、舞踊の起源問題でもある。しかしながら、『北斉書』・『北史』によれば、「蘭陵王入陣曲」は北斉の河清三年に創作されたものであり、外域から伝来したものではないことは明らかである。このことは、唐の『楽府雑録』、『教坊記』、『隋唐佳話』、『通典』などの書籍にも記載されているのである。
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