|
|
|
− 真言宗中国開教史 資料 −
全寺院略歴(地名(日本語読み)による五十音順)
|
|
|
創立者 |
中田覚船 |
略歴 |
大正 9年 6月 |
中田覚船、鞍山に高野山大師教会を新設するも不認可となり退任 |
大正11年 春 |
新田忍隆が遼陽と兼務赴任 |
大正13年 6月 |
橋本渉全赴任 |
大正15年12月 |
橋本渉全,レンガ造り本堂、庫裏55坪を新築(予算8,000円)して大日寺と寺号公称する(428)
付属設備 納骨堂 西国三十三ヵ所霊場 観音堂(以上M) |
■ 鞍山 川崎大師別院 |
鞍山市南二条71 |
[地図] |
■ 鞍山 鞍山分教所 |
鞍山市南二条町17 |
[地図] |
創立者 |
田和密乗 |
略歴 |
明治44年9月6日 |
田和密乗、安東県に着任 |
明治45年8月 |
仮教会を設置 |
大正 2年末 |
田和密乗安東県大師教会 支部長 |
大正5年6月 |
塩山観光が教会主任に任命 |
大正 8年 |
塩山観光、同地にて寺門興隆中死亡 |
大正10年3月 |
第3世住職に木沢隆盈赴任 |
大正15年 春 |
信者 庵谷枕から土地1046uの寄付を受け本堂兼庫裏を建設 |
昭和2年10月 |
第4世住職に井手畑達道が赴任 |
昭和4年4月 |
第5世住職に亀山浄円が赴任し井手畑は帰国する(以上M) |
■ 安東県 弘徳寺 |
安東省安東県掘割南通6丁目 |
[地図] |
■ 安東県 安東第一分教会 |
安東県五番街三丁目2 |
[地図] |
創立者 |
菅野 経禅 |
略歴 |
大正5年10月 |
菅野経禅 営口支部長を任命(81,87) |
大正5年11月2日 |
久保観雅高野山大師教会本部監事 満州11ヶ所の教会視察の途中、営口視察。この時の様子を伝える菅野経禅通信(80)
「営口は振わざること南満州第一にて、これには深き仔細ありて、事ここに及びては甚だ教会のため遺憾千万なり、久保僧正の来営を期して教会を閉鎖せんとすると、久保僧正が決をふるうて、世話人を督励し、必ず一家屋を買い受けて教会を組織し健全なる発展を計らんことを規約して離別せし」(80) |
大正8年9月25日 |
高野山時報168号 中田覚船「営口の教会について」
「営口の教会は大正3年、弘法教会の名で高野山の本部と関係なく設立された。大正5年6月、高野山大師教会と改名する。その後大正8年までに6人の開教師がかわり、そのあげく、教会は空き家となり、現在は吉野の奥から出てきたという後家婆さんの棲家とかし、内職の
豆選り場とまでなりさがっている」との報告。原因は教会が赤線地帯と近すぎると、 |
略歴 |
昭和14年 |
有井正隋が第14師団従軍中に設立 |
■ 蓋平県 蓋平寺 |
奉天省蓋平県蓋平街大和区第八碑144 |
[地図] |
■ 吉林市 照林寺 |
吉林市新開門外25-8 |
[地図] |
創立者 |
菅野 経禅 |
略歴 |
大正13年11月7日 |
菅野経禅 金州に開教し支部設置を出願 |
大正15年5月 |
金州大師教会を菅野経禅、佐藤法賢が起工(375) |
昭和2年11月 |
菅野経禅、本堂庫裏を完成、この頃金州に日本寺院は唯一で、日本人の戸数300戸と。(459) |
昭和4年1月28日 |
金閣寺と寺号公称 |
昭和4月18日 |
菅野経禅 金閣寺第一世特命住職に任命、このとき境内400坪、建物55坪 |
昭和4年頃 |
茂木秀禅、金閣寺留守番赴任 |
昭和4年6月9日 |
金閣寺入仏供養 導師 草繋全宜 |
昭和16年 |
大西増龍 金閣寺留守居役赴任(以上M) |
略歴 |
大正5年10月 |
設置認可、田和密乗が教会主任(87) |
■ 公主嶺 大師寺 |
吉林省公主嶺桜町二丁目 |
[地図] |
創立者 |
上田 智龍 |
略歴 |
大正5年夏 |
上田智龍公主嶺に開教し、有志と協力して敷島町一丁目の借家に教会支部を設置するも病気のため帰国。療養後、再入国し金州 天斎廟滞在。 |
大正5年10月 |
公主嶺大師教会支部設置の認可(77) |
大正5年12月 |
上田支部長任命(81) |
大正6年5月2日 |
正田英禅2世支部長に赴任(91) |
大正6年 |
堂宇を建設(予算5,000円) |
大正8年6月3日 |
大師寺と寺号公称し入仏式、正田主任(159) |
大正8年 |
浜田覚盛 3世赴任 |
大正13年4月19日 |
正田英禅 死亡(375)略歴「高野山大学卒業(大正5年)後、本山の特命にて公主嶺支部長に赴任し堂塔の建立中死亡と」菅野経禅投稿(335) |
大正14年 |
利光(有田)智玉 4世赴任 |
昭和3年 |
谷口堪空 赴任(利光は長春の金剛寺へ赴任)(M) |
昭和6年10月 |
水谷賢清が主任 在任中 |
■ 厚和 日本ラマ研究本部(蒙彊開教監督部) 厚和市 舍力図召 内 |
|
■ 済南 済南高野山大師教会 山東省済南府商埠地三写路 |
[地図] |
略歴 |
大正6年 |
青木隆雄(M45 高野山大学中退)は当地、駐在武官の貴志大佐、済南領事などの援助で大師教会創立(95)堂塔建設予定が戦争のため延期中(117) |
大正13年頃 |
現状無住の報告が高野山大学卒業旅行の学生から報告(351) |
昭和3年6月 |
田岡大鳳支部長駐在(481,484) |
大正8年 |
浜田覚盛 3世赴任 |
■ 済南 済南高野山大仙寺 |
済南市通恵街29(900) |
[地図] |
創立者 |
西 智観 |
略歴 |
大正8年 |
西 智観 西平街に開教し支部を設置 |
|
2世 万海師 |
|
3世 浅賀 正弘 |
|
4世 伊藤 観旭 |
|
5世 万谷師 |
|
6世 松本 徳円(昭和4年5月18日任命)当時まだ借家と(以上M) |
略歴 |
大正5年5月27日 |
柚山宥勝 上海虹国呉三松路225号 真言宗布教所に赴任(69) |
大正6年8月 |
山本諦英、高野山大学を中退し上海へ開教使として赴任(101) |
大正8年6月 |
柚山宥勝、上海事変で負傷(159) |
大正8年11月 |
フランス租界白爾442号 鄭渭江氏宅に「高野山上海別院」建設事務所を設置、幹事に中村勝次郎(元北京大学顧問)鄭渭江(小真昌洋行コンプラード)が就任、評議員に張楽君(上海商会議員、南北華商維持会会長)が就任。(172,175)
建築総予算 銀15万元 本堂建築費(7万元) 仏堂建築費(4万元) 支那僧院(密教研究所)1万元 図書(1万元) 土地買収拡張費(2万元)(172,175) |
大正11年11月10日 |
上海高野山建築工事起工式(286) |
大正13年現在 |
上海別院 岡村宥勝支部長(351) |
■ 四平市 康徳寺 |
四平市大同区昭平橋通44 |
[地図] |
略歴 |
昭和17年 |
扇谷重憲 駐在中 |
年月不明 |
岡村儀雄 駐在中 |
■ 蘇家屯 蘇家屯大師教会支部 奉天省蘇家屯市昭和通12 |
[地図] |
創立者 |
井上 慈禅 |
略歴 |
昭和7年 |
井上慈禅、奉天 金剛寺より蘇家屯に開教し昭和通に開所した後、藤岡舜教が赴任(648)
|
■ 蘇家屯 蘇家屯寺出張所 |
錦州省錦西県連山河老斧廟 内 |
[地図] |
■ 太源 太原高野山太源寺 |
太原市南省墻88 |
[地図] |
創立者 |
高比良 光遍 |
略歴 |
大正2年8月 |
高比良、大師教会大連支部沙河口布教所を創設 |
大正3年12月 |
本堂新築 |
大正5年 |
高比良主任、妻とともに教会発展に奮闘中(80,87) |
大正9年1月 |
本堂庫裏を改築 敷地852坪 建物157坪レンガ造り |
大正10年12月9日 |
新高野山大徳寺と寺号公称 |
大正14年4月 |
高比良、本月1日より、託児所を開設予定のところ、教会設立功労者の立川市議会議長など幹部と意見合わず幹部が総辞職する(371) |
略歴 |
明治41年12月 |
矢上(後、福島に改姓)仁雅、大連市摂津町に高野山大師教会開設、満州での真言宗最初の大師教会となる。 |
大正2年末 |
田和密乗支部長が駐在中(7) |
大正4年11月1日 |
御大典記念高野山幼年会が同寺にできる(59) |
大正4年11月16日 |
大聖寺聖徳婦人会が発足(59) |
大正5年10月現在 |
田和密乗主任が在任中(80,87) |
大正9年5月1日 |
大聖寺と寺号公称する。田和密乗、後任住職となり大連市の発展にともない寺門大いに興隆 |
大正9年10月29日 |
田和密乗死亡、在任9年間に仮本堂、客殿、庫裏を建立、満州開教のため終始一貫貢献(以上M) |
大正11年8月 |
菅野経禅、大連大聖寺の臨時兼務住職に任命(272)
菅野経禅、この頃「偽仁会」を結成し免囚保護事業に取り組み中(289) |
昭和5年11月23日 |
客殿完成落成式(568,572) |
昭和8年 |
大西増隆 支那開教使心得として赴任
太田某在任中 |
略歴 |
昭和8年春 |
小田憲剛(明治44年高野山大学中退)チチハル開教のため赴任(648) |
■ チチハル 大安寺 |
チチハル市斜陽街236 |
[地図] |
創立者 |
飯野俊宣 |
略歴 |
昭和13年3月25日 |
飯野俊宣は察南自治政府より官有寺院を借用し、阿弥陀寺を開創
同寺内に、日蒙密教研究会、高野山日曜学校を開設 |
昭和14年 |
同寺内に仏教学院を開校 |
昭和17年 |
飯野俊宣 住職中 |
■ 長春(新京)金剛寺 |
新京市祝町2の12 |
[地図] |
創立者 |
福島某 |
略歴 |
大正4年 |
福島師 長春に開教(1世) |
大正5年4月20日 |
上田智龍 教会設置承認(2世) |
大正5年10月 |
上田智龍、北京滞在中のところ中国官憲より北京退去を命ぜられるも朝鮮僧侶に変装して再入京したが発見され再退去。 |
大正6年4月 |
本堂建築(50坪) |
大正6年11月12日 |
金剛寺と寺号公称 |
大正8年6月1日 |
上田智龍かねて金剛寺の寺門興隆中、概略完成し本日入仏式(159) |
昭和3年5月 |
利光師、公主嶺より転任し上田と交代する(3世)(以上M) |
昭和5年6月2日 |
全満州開教使会議が同寺にて開催される(554) |
■ 長春 長谷寺別院 |
新京特別市順天区神泉路402号 |
[地図] |
略歴 |
大正4年9月 |
青島高野山出張所にて日独戦死者追悼会(50) |
大正5年6月 |
田岡大鳳 青島大師教会 支部長に任命(69) |
大正15年9月〜10月 |
大師教会映画班が田岡の要請で巡回布教(419) |
昭和2年10月29日 |
寺号公称 住職晋山式(463) |
大正6年11月12日 |
金剛寺と寺号公称 |
昭和3年現在 |
円法蔵(丹清蔵?)開教使駐在中 |
昭和3年5月15日 |
済南事変戦死者追悼告別式(482) |
昭和3年7月 |
青島、済南派遣兵慰問に丹清蔵、密教婦人会が努力(485) |
創立者 |
満蔵光峨 |
略歴 |
大正6年3月 |
満蔵光峨 鉄嶺東大街 林熊太郎宅に支部設置 |
大正6年9月 |
レンガ造り20坪の教会を新築 |
大正9年10月 |
鉄嶺一道街に鉄嶺大師教会設立認可(207) |
大正9年 |
井上慈禅が満蔵光峨と交代赴任 |
大正10年 |
鉄嶺一道街に鉄嶺大師教会設立認可(207) |
昭和3年 |
井手畑は帰国し、堂園教明が赴任(以上M) |
昭和6年3月 |
堀川慈範主任(581) |
略歴 |
昭和18年 |
安藤清良(昭和14年渡支)駐在中 |
■ 図門 図門高野山大師教会支部 間島省図門市銀河区春風路 |
|
創立者 |
山田慈海 |
略歴 |
大正10年4月7日 |
上田智龍名義でハルピン総領事松島肇より大師教会設置許可 |
昭和2年8月6日 |
山田慈海が支部長に任命(以上M) |
■ ハルピン 極楽寺 |
ハルピン市南崗大道街 |
[地図] |
■ 阜新 阜新寺 |
錦州省阜新市海州区永楽街 |
[地図] |
創立者 |
田和 密乗 |
略歴 |
大正1年12月17日附 |
田和密乗、撫順金寨新町の借家に高野山大師教会支部設置 |
大正2年 |
松尾禅山赴任 |
大正4年6月20日 |
松尾主任、富士見新町3丁目に本堂建立。世界大戦で延期していたがこのほど、南満州鉄道会社、撫順炭鉱会社の支援で建築費1万円にて起工(46) |
大正9年 |
庫裏建築、寺号公称する |
昭和2年11月9日 |
撫順炭鉱の都合で新設市街の東七条に敷地420坪を得て、130坪のレンガ造りの寺院新築 |
昭和3年7月15日 |
撫順炭鉱大法要が松尾住職が当番にて開催され、真言宗から12名が参加(491) |
昭和4年5月29日 |
草繁財務部長の巡教をえて満州金剛講の本部発会式(以上M) |
略歴 |
大正7年7月 |
高比良光遍 支部長就任(225) |
■ 北京 金剛寺 真言宗支那開教監督部 風神廟 北京市北池子36 金剛寺 内 |
[地図] |
略歴 |
昭和13年 |
野沢密全ら既存の東亜日語学校を買収して開校する |
同年 |
尾形智見が教師として赴任 |
創始者 |
加集 静雄 |
創立者 |
井上 慈禅 |
略歴 |
大正2年1月 |
加集静雄、奉天に至り、十間房第5区警 第127号の2 三浦梅太郎の貸家15坪に教会支部設置する,但し支部長名義人は田和密乗(7) |
大正2年6月5日 |
田和密乗名義にて監督官庁の認可を受ける |
大正2年12月 |
牧野、末本の両名蒙古語とラマ教研究のため入蒙準備に奉天大師教会に仮遇する、加集主任(31) |
大正3年 |
加集事務主任 |
大正5年10月現在 |
加集静雄、奉天教会主任(80,87) |
大正5年6月5日 |
田和密乗の名義で監督官庁の許可を受け、布教に当たる |
大正10年4月 |
井上慈禅(鉄嶺支部長)が奉天支部長として赴任 |
大正10年5月 |
富士浪町6番地に662坪の敷地を得て、仮本堂兼庫裏(43坪レンガ造り)を建設 |
大正10年8月21日 |
本山より「金剛宝寺」の寺号下附さる |
大正10年12月14日 |
監督官庁より寺号公称許可 |
大正13年9月20日 |
34坪レンガ造り平屋庫裏建設 |
昭和3年8月21日 |
26坪2階建て庫裏増築(ここまでM) |
昭和4年6月5日 |
井上慈禅の資、井上慈範が金剛宝寺で得度(その後、遼陽弘法寺へ赴任後、応召行方不明に) |
昭和6年11月 |
在満州開教使会議 開催 |
昭和17年現在 |
井上慈禅住職中 |
■ 牡丹江 金鈴寺 |
牡丹江市中区金鈴街16 |
[地図] |
創立者 |
加藤清秀 |
略歴 |
昭和18年 |
創立者の加藤清秀、昭和18年死亡、しばらく石川祐猛夫妻留守居、
昭和18年 大西増龍が特任住職として赴任 |
■ 牡丹江 遍照寺 |
牡丹江市七星街9の3 |
[地図] |
■ 本渓湖 石山寺 |
石山寺 本渓湖市石山町 |
[地図] |
創立者 |
坂東隆道 |
略歴 |
大正5年 |
坂東隆道、本渓湖大師教会を設立して開教中(80,87) |
大正9年 |
敷地661平米を得て、本堂庫裏を建築 |
|
初代 坂東隆道 |
|
2代 菅野経禅(大正14年5月15日、双方円満解決の上、石山寺は菅野より佐藤法賢に移った、佐藤は6月20日頃から多年の浪人生活をやめて宣伝に入ると?(375) |
|
3代 伊東観旭(昭和2年頃) |
|
4代 永池智海(昭和4年現住)(以上M) |
■ 香港大師教会支部 |
牡丹江市中区金鈴街16 |
[地図] |
略歴 |
大正2年末 |
古川眞筌が支部長として駐在中(7) |
創立者 |
新田(秋篠)忍隆 |
略歴 |
大正8年8月 |
新田(後 秋篠)忍隆は、高野山大師教会本部長 久保観雅の勧めで遼 陽に渡り、修家大街に四戸長屋の一戸を借りて高野山大師教会遼陽支部を設立。 |
大正9年3月 |
遼陽支部が認可(185) |
大正9年10月 |
新田忍隆が支部長に任命さる(185,209) |
大正13年10月5日 |
満鉄より土地2961平米を借り、1万円の予算で26坪の本堂と15坪のレンガ造りの庫裡を新築して落成式、弘法寺と公称す。住職は新田忍隆当日落成式出席の開教使が同寺にて在満開教使会議を開催。(351) |
昭和3年4月19日 |
甲元豊順が新田と交代して赴任(以上M) |
昭和5年10月現在 |
甲元豊順 駐在中(606) |
昭和○○年 |
井上慈範赴任したが応召後行方不明 |
創立者 |
福島仁雅 |
略歴 |
明治44年11月 |
福島仁雅 旅順に大師教会支部を開設 真言宗最初の開教 |
大正1年 |
影現寺と寺号公称す |
大正2年 |
住職 上田智龍(2世) |
大正3年8月9日 |
上田に高野派留学僧として清国派遣の任命あり本日出発(23)
その後病気となり、故郷山口で療養していたが3年11月7日清国へ出発、金州の天斎廟へ入寺 後任に満蔵光峨が影現寺住職に(3世) |
大正4年10月 |
北垣祐真 影現寺住職赴任(4世) |
大正5年9月 |
北垣祐真 旅順大師教会支部長任命(75) |
大正9年10月 |
菅野経禅、大師教会本部より、満州教区旅順支部長に任命される(207) |
大正9年12月25日 |
菅野経禅(朝鮮平安南道鎮南浦 高野山大師教会支部長)が影現寺住職任命(5世)(217) |
昭和4年現在 |
住職 菅野経禅 主任 北川覚禅 敷地360坪建物70坪 三十三ヵ所観音霊場 八十八ヵ所霊場など |
■ 龍江省 法弘寺 |
龍江省白我子街中央大街 |
[地図] |
■ 台湾 嘉義布教所 |
台湾嘉義街西門外布教所 |
[地図] |
略歴 |
昭和3年 |
生方龍晃 駐在中(485)同布教所は経営困難のため一時中断していたが警察の警告を受け、生方が復活し、岩田覚澄が専任布教師として赴任(485) |
略歴 |
大正2年末 |
支部長 大野義証(7) |
大正7年末 |
北垣祐真教会主任として赴任、9年帰国。 |
略歴 |
昭和5年 |
山本宥照主任は、先年火事で焼失の本堂再建事業中(575) |
略歴 |
大正2年末 |
松峰光典支部長(7) |
昭和5年末 |
大塚覚雲、南門に本堂新築中(工費五万円)6年8月完成予定(575) |
略歴 |
大正2年末現在 |
小山祐全住職(7) |
大正13年1月 |
台北弘法寺 内 台湾護国十全会 主任 小山祐全 創立十周年で宮内省より表彰(330) |
昭和2年6月 |
小山祐全死亡(448)和田性海、小山の葬儀導師をかね、弘法寺、大師寺、新竹教会を巡教(448) |
昭和6年1月 |
藤生祐俊住職、本堂増築、不動堂、納骨堂の落成式。高野山大学講演部が参加。(578) |
略歴 |
大正2年現在 |
長智栄支部長(7) |
大正7年末 |
生方龍晃赴任 |
|
|
|