「真言宗中国開教史年表」について

 筆者の調査によれば、日本人が初めて中国に仏教を布教しようと中国大陸に渡ったのは明治6年、浄土真宗東本願寺派の僧で大分県出身の小栗栖香頂(おぐるすこうちょう)が最初であった。(詳細は本サイト内「真言宗中国開教史その1」を参照)


 真言宗は小栗栖から遅れること35年、明治41年山口県出身の福島(旧姓矢上)仁雅が、中国遼東半島末端の著名な港湾都市・大連に「大連高野山大師教会」を開設したのがその始まりで、以来昭和20年の敗戦まで延べ500名近くの人員が大陸各地でこのことに従事し、若くして異国で亡くなった青年僧も多かった。敗戦後中国から引き上げてきた布教師、開教師から「我々は裸一貫で引き上げてきた、せめて中国大陸での活動について宗派が責任を持って我々の活動史を編纂してほしい」などの請願が高野山の宗議会に出されたが、マッカーサー占領軍からどんな難癖を付けられるかもしれないとの心配で、実現することもなく今日に至った。したがって、まとまった形で真言宗の中国開教についての資料が発表されるのは、本サイトが最初である。


 ところで、真言宗が戦前、中国大陸で行った活動については否定、肯定さまざまな意見がある。「大東亜戦争」は欧米列強の植民地帝国主義からのアジア解放戦争であり、中国開教活動は広義にはアジア解放のための日本の宗教者達の歴史的活動だった(浄土真宗・小栗栖香頂の中国布教の目的について「当院HP中国開教史その1-4参照」)という意見から、侵略戦争への単なる戦争協力の歴史だというものまで、様々である。対局する二つの意見に言えることは、日本仏教各宗派が戦前行なった中国布教については、敗戦による混乱や現地での資料収集など困難が多く、今日までその歴史をまとめたものは非常に少ないという理由もあった。正確な資料もなく毀誉褒貶していたといえよう。本年表はこのような現状の中で真言宗について初めて、その概要をまとめあげた資料である。


 特に申し上げたいのは筆者の出身大学である高野山大学からは多くの卒業生・先輩が中国開教使として中国大陸で活躍していたが、終戦とともに全てが瓦解し、無事に帰国したもの、異国で一命を落としたものなど様々であった。いわんや彼らの活動史など、戦後六十年、一顧だにされずに今日に至った。同じ大学の後輩として、彼らの足跡の一端をまとめ、いくらかでも彼らの無念に思い至れば幸いである。


 これらの資料を書物にせずインターネットで公開しているのは次のような理由による。わが国の出版世界の常識ではこのような宗教専門書の印刷部数は数百部が常識で、仮に300部程度印刷配布しても、関係者の書斎の奥にしまわれそのままになってしまうだろうと思われる。むしろインターネットで公開して驚いたのだが、少数だが日本国内にも日本仏教の中国布教について研究者がいること、さらには中国、台湾、旧ソ連地域からも問い合わせがあり、このような歴史に興味を持ち、研究されておられる方が結構いるんだと驚いた次第だ。真言宗という極東の宗教集団が、二度の世界大戦の中をどのように生き延びてきたのか、などということに興味を持つ人間が世界にいるんだという驚きでもあった。


(松下隆洪 平成24年10月31日)