静岡・清水寺(高野派)の弟子・吉井芳純は、金剛峯寺留学生として北京大学に留学していた。この間、中国政府要人と親交をもち、呉佩孚将軍秘書李楷業夫人李葉宣、元四川省財政総長劉節初、元参議院議員陸軍少将姜継などを得度する。又、「曼荼羅」(日支両文月刊誌・S5年1月5日創刊)を発行して、布教活動をしていたが、これ等はその後「中日密教研究会」発足の母体となる。
吉井はS5年帰国。帰国にあたり、この「中日密研」発足について、中日両国の有志にアピールを行う。(S)


--.-- 高野山からの北京大学留学生・吉井芳純は帰国にあたり、段祺瑞の要望で「中日密教研究会」成立のためアピールをおこなう。日本公使館の協力で具体化。吉井は署名を持って高野山へ。
--.-- 越智丈吉(北京商工会)「中日密教研究会」成立の工作のため高野山へ。


4.24 「中日密教研究会」総裁推載式、於高野山金剛峯寺−中華民国前参議院議長・王揖唐、前国務総理・高凌尉、前交通財務総長・曹汝霖、前交通総長・張志潭、前国務院秘書長・孫潤宇など、北京天津在住官民60余名が発起人となって日支の連絡を密にするため、「中日密教研究会」が創られ、会長に段祺瑞、副会長に王揖唐、高凌尉、総裁に高野山座主.龍池密雄を決定し、本日その推載式が行われ北京商工会委員・越智丈吉、前国務院秘書長・孫潤宇らが出席。S6年4月24日大阪朝日−SP6より。
10.-- 静岡・清水寺本堂完成。後に日華親善殿と改称さる。(吉井芳純自坊)(S9年)(794)


4.13 吉井芳純、中日密教研究会の組織化を目指し本日天津に着く。(619・618)
4.14 段祺瑞会長・高凌尉・王揖唐副会長と会見。(S-13・623)
5.29 天津総領事・桑島主計は官邸に段祺瑞会長を招き吉井芳純と会見をさす。王揖唐・曹汝霖も出席。(S-13)
6.19 吉井芳純・越智丈吉(野崎誠近)らがかねて工作中の「中日密教研究会」を本日天津公会堂日本人倶楽部で発会式。吉井は引き続き「密教研究会館」の発足を工作中。(S-12・14)−S7年7月8日の大阪朝日から。
9.-- 吉井芳純の師匠・田中清純は吉井の要望で中日密教研究会館の発会式出席のため渡支を決定し上京。斉藤実首相、内田外相を訪ね、その旨を報告。(S-15)
10.07 田中清純は本日附けで中日密教研究会総裁代理として中華民国出張を命ぜられる。
10.12 天津に着き曹洞宗観音寺におちつく。
10.16 桑島総領事・菊地参謀長を訪れる。(S-15・16・20・641)
10.24 田中清純領事館からの電話で北京、故宮大和殿でのパンチェンラマの時輪金剛大法会に会長・副会長らと参列。(S-21・641)
10.29 田中清純、北京故宮頤年殿(イネンデン)にてパンチェンラマと会見。(647,S-24)し、両国仏教徒・ラマ教と真言密教の提携による和平解決について意見の一致を見る。(S-25・26)
11.06 田中清純、パンチェンラマとの会見を記念し、師雲照律師の袈裟などを数品贈る。(S-33)
11.15 これに対しパンチェンラマ、日本公使館に異例の答礼をする。(S-35)
11.20 段祺瑞は田中清純を自邸に招く。段は原内閣の政策を批判し、日本政府の方針を批判、世界万象を敵とする行為は考慮せる必要があると発言。日支の親善は宗教によるべきと発言。(S-37)
11.21 研究会館本尊として贈られた大師像が、高野山金剛峯寺より天津に着く。(S-39)
11.26 中日密教研究会館、開館式。
会館は四階建てのビルで・王揖唐のカンパしたもの。式にはパンチェンラマ代理として喝金楚臣傾批法師が出席する。パンチェンラマ.段祺瑞らから祝辞多数を受ける。(S-55・623・638・647)


天津中日密教研究会館内に天津金剛寺が創られる。
5.20 田中清純「宗教に依る日支親善」を出版。
6.27 昭和天皇に提出。(655)
6.25 矢野真(前北京公使館在勤)は、田中清純を訪れ、9年の大法会にパンチェンラマを招待するよう工作。(665) (静岡)
8.-- 吉井芳純、中国に日支平和の祈念塔建立運動。(667)
10.21 アフガニスタン王族マヘンドラ・ブラタップは、静岡市清水寺に田中清純を訪れ、ダライラマよりの贈品を田中に贈る。(679)
11.26
〜27
中日密教研究会館(天津)に研究所(中日密教学院)が設立され、開所式。(643)


1.15 中日密教研究会館に、中日密教学院(院長・曹汝霖、副院長・中野義照)が発足。(686)
3.04 中日密教研究会静岡支部が田中清純により静岡・清水寺に発足。(688)
3.20 吉井芳純・岡村宥照、段会長と面会。(691)
4.27 大法会で来山した王揖唐、清水寺を訪れ本堂を日華親善殿と命名。(694・695)
6.01 マヘンドラ・ブラタップ、田中清純を訪れる。(699)
6.-- 中野義照「阿育王の聖業」を天津・中日密教研究会より出版。(699)
7.29 中日密研教務主任「許舟」氏、高野山大学で「現代支那における真言密教」を講演。(704)
8.06 汎太平洋仏青大会のインド代表・スワミ大僧正、田中清純と東京で会見。(707)
9.26 桑島主計(前天津総領事、現亜細亜局長)、清水寺に田中清純を訪問。(707)
--.-- 田中清純「依宗教日支親善」を満州皇帝に。(699)


1.-- 田中清純、チベット・パンチェンラマヘ唐画・金剛界マンダラ等を贈る。(721)
4.-- 天津中日密教学院40名を数える。(765)
4.-- 天津中日密研は、北京に支部設立が決まる。鮑宗漢氏・中日密研に天津市内2千坪の土地を寄附。(765)
(2万坪の間違い?…吉井談)
4.-- 吉井芳純・田中清純ら、東京に中日密研日本総支部を設立する。(730)(吉井氏は誤報との由。)
5.02 東亜親善協会(中日密研の賛助団体)は、東亜密教協会と改称。(732)
(このニュース、吉井氏によれば誤報)
東亜親善協会は、日華密教青年会の事ではなかとの由、東亜密教協会は、新しく創られたもの。(吉井談)
6.-- 東京別院内に中日密研・東京学園建設運動を吉井がおこす。(735)
(日華密教研究会の事ではないかとの由・吉井談)
7.05 中日密研建投予定の天津平和塔建設準備会(東亜密教協会発会式)開かる。東京にて。(737)
7.30 東京別院内に中日密研の工作で日華密教青年会が発足。(738)


4.01 王揖唐、土地千五百坪を中日密研に。(766)五台山に借用したもの。
4.17 中日密研北京支部は、北京五台山普化仏教総会内に発足。(766・769)
11.02 段祺瑞(中日密研会長、中華民国前執政)死亡。
12.21 田中清純、還暦祝いに五台山普化仏教会長・王春喧が清水寺に出席。(791)


1.-- 田中清純、蒙古ラマ黄教法王大国師章嘉活仏に自著を贈り、友好を求める。(793)
2.-- 静岡・清水寺本堂=日華親善殿を静岡観光名所指定を鉄道省に出願。
6.08附け指定。(794・809)
7.17 吉井芳純、本日附けにて古義真言宗皇軍将士慰問副使を任命さる。(812)
7.27 吉井は7月14日より、北京支部(五台山)へ出張のところ北支事変に遭い北京脱出。
27日、天津に着。(812)
8.-- 江朝宗(中日密研副会長)、北京市長に就任。(816)
8.-- 中日密教研究会は、天津にて事変避難民(中国人ルンペン)を現地医師会、仏教居士林と協力して救済活動。(814)
10.08 吉井芳純は、江朝宗(同会副会長、北京市長)らと交渉中のところ、本日附けで「風神廟」(北京市内中央北池子大街)が同会に貸与される。総面積2400坪・後殿・法輪殿・大雄殿etc(820)
12.14 高岡隆心・中日密研総裁、中華民国臨時政府の成立につき祝電。(826)
12.22 田中清純、東京に許支那駐日大使を訪れる。(824)
12.-- 田中、蒙古政府要人に贈書し、友好を求める。(826)
--.-- 吉井芳純、西安青龍寺復興運動を計画し、五台山に留学生を迎えるため運動中。(809)


1.25 中日密研静岡支部は、代表理事長、陸軍大佐・八木雄馬を支部代表として中国臨時政府要人との会見ならびに北支日本軍慰問の目的で派遣する。(〜3.18)(830・827・837)
1.-- 中日密教研究会静岡支部はパンチェンラマ追弔法要を記念し、「班禅法王追悼余光」3000部を発刊し、国内・中国へ送る。(834)
2.17 田中清純、矢野真(スペイン駐箚特命全権公使)の帰国で横浜港へ見送り。(矢野はS7年北京大使館にあり、田中とパンチェンラマとの会見を取り持つ。)(832)
5.01 内ヶ崎文部政務次官、田中清純を清水寺に訪れる。(840)
5.06 田中清純、伊東温泉に来日中の北支臨時政府行政委員長・王克敏を訪ね、約1時間にわたり会見。(840)
5.13 田中清純、東京に矢野スペイン公使を訪問。(841)
5.16 田中清純、東京文部省に内ヶ崎文部政務次官を訪問。(841)
6.03 風神廟で風神廟修復委員会。(848)
8.-- 高橋大善、高野山大を卒業し、蒙古開教を目指して本月蒙古・厚和に至る。同地ラマ寺舎力図召に入廟し、蒙古語を研究中。(849・850)
9.11 厚和滞在中の高橋大善、内蒙奥地の調査。(〜10.03)(857・858)
10.-- 包頭へ善隣協会の依頼でラマ教調査。(857)
10.02 北京にて、風神廟修築第2回委員会が開かれ、江朝宗、王揖唐ら出席し、着工を決定。
中国側三万円の基金を集めることを決定。(856)
10.03 日本軍特務部・富田鎮彦は、風神廟を訪れ、宗教関係専門の成田少佐の帰任を待ち、20日頃開かれる対支布教対策会議に吉井芳純の出席を求める。(85?)
10.-- 満州国政府の依頼により、熱河省八大廟のラマ増160名の指導・監督のため、高野山より長谷川行栄が派遣さる。(857・866)
10.06 蒙古連盟自治政府文官行政視察団一向、日華親善殿(静岡市・清水寺)を訪問。
12.14
〜28
古義真言宗・草繁総務、ラマ教との提携工作。北京別院問題など処理のため渡支。(861)
蒙彊親善協会要人らとの会見をし、帰国。(884)
12.-- 張家口高野山阿彌陀寺に飯野俊宣、日蒙密教研究会・高野山日曜児童園をつくる。(863)
12.-- 「日華親善殿」の看板が、東海道線沿線に建てられる。(861)


2.01 中日密研静岡支部、中日密教研究会日本々部と名称変更。(868)
4.26 蒙彊普化自治政府教育視察一行33名、静岡市清水寺の日華親善殿を訪れ田中清純と会見。中日密研の大同への進出が内定。(875・882)
6.01 北京風神廟、仮本殿増築落慶式。(878)
6.-- 中野義照(在天津)、興亜院河北連絡部員を嘱託さる。(879)
4.08 第1回高野山ラマ研究生、田尻隆昭・近藤康祐・多和川勝芳・根本宥昌・内野泰吽・神山憲雅は本日高橋につれられ厚和につく。これより蒙古語の訓練に入る。(871・874)
6.23 所定の訓練を終え、各地の廟へ配属赴任。(881)
4.12 満州国協和会の募集により、高野山から派遣された8名の満州ラマ研究生は、本日新京に着く。これより協和会中央訓練所に入る。(871,875)
6.07 所定の訓練を終え新京博済慈善総会に入り、徹底的蒙古生活様式による訓練に入る。(879)
5.-- 内野・根本・田尻の高野山ラマ研究生、土黙旗公立蒙人学校で日本語を授業中。
8.-- 奥地ラマ廟へ転出。(889)
6.29 第2回高野山ラマ研究生、民岡秀海・内海勝慧・小野昌道、入蒙。(881)
6.-- 厚和舎カ図召の高野山ラマ研究生に蒙古政府より1280円の本年度手当。(882)
6.-- 高橋大善、舎カ図召延壽寺の弟子となり、トルチの僧名をもらう。(880)
6.-- 高橋、蒙彊奥地調査。(878)
7.22 福田寺戒性、厚和視察。
7.26 包頭。(887)
7.-- 厚和の舎カ図召・高野山蒙彊開教本部内に高野山施療院を開き、簡単な施薬活動をしていたが、本月蒙古政府は400円の補助金を与える。(882)
8.-- 田尻隆昭(高野山ラマ研究生)五当召広覚寺へ入廟。(886)
9.-- 中日密教研究会中国本部北京風神廟は、北京高野山別院と改称さる。(889)
11.-- 向井正五(満州ラマ研究生)は4月渡満し、興安北省西新巴虎旗東廟に駐在のところ、本月帰国入隊。(897)
11.-- 高橋大善、多倫廟へ。(893)
12.-- 吉井、高野山へ宗会工作。
12.-- 吉井、北京別院主監に就任。
12.-- 今川海憲・小野昌道(高野山ラマ研究生)は、帰国入隊。(898)
14年 張家口阿彊陀寺に飯野俊宣、仏教学院を独自で経営し、休院となる。(S16年)(〜15年)
興亜院より一万円の補助により開院。(1022)


1.-- 五台山へ開教師を送ってこいとの○○当局の依頼で、酒井真典(高野山大学)が赴任。S17.6 帰国(898・902・1019)
2.-- 静岡市大火に王揖唐は300円を救援金として田中清純(静岡・清水寺)に贈る。(903)
3.04 高凌尉(中日密研副会長、前河北省長、前国務総理)死亡。(907)
3.-- 王揖唐(中日密研副会長)、国民政府(汪精衛)の考試院々長に就任。(909)
4.13 第2回満州ラマ研究生、石田宥法・植村眞光・雲峰寿夫・嘉吉設了・豊田弘信ら新京着。新京金剛寺へ入る。(913)
5.09 中央練成所での訓練を終る。次の訓練に入る。(920)
4.23 竹本寛隆は高野山ラマ研究生として本日入厚和。(910・916)
5.08 草繁総監、厚和着。
5.19 酒井真典は外務省の招電により帰国(4.11)していたが、外務省在支特別研究員として再渡支後、太原で待機中のところ本日五台山へ。(911・919)
6.16 第2回満州ラマ研究生5名は6月8日第二次訓練を終了し、本日興安北省・興安西省の任地へ。(926)
6.29 シラムリン廟駐在・内野泰吽は、河に落ちたラマと蒙古兵3名を救助し、徳王から感謝状。(926)
→昭和17年5月30日、中支にて戦死。(1028)
7.-- 岩鶴密雲(高野山大教授)は、ラマ廟視察の目的でハイラルからカンジコル廟へ。(〜9.--)
9.-- 田中清純は、日華親善殿護持財団組織化工作中のところ、4万円を集める。(963)
12.-- 石田宥法(満州興安西省ジャルト旗メリン廟駐在)帰国入隊。(943・947)
12.-- 日華親善殿中日密研日本本部は、従来の寄付金39500円のうち、現有3万円を第1回基金として財団法人を申請する。(901・946)


3.-- 吉井芳純は興亜院の命で調査活動に従事していたが、古太原西北蒙山付近にて大石仏と石経20本を発見。(962)
4.19 北支経済使節団(14日来日)の張伯麟(天津中日密教研究会理事)、日華親善殿を訪間。(963)
4.22 鈴木猛淳・西田覚寛・望月岱雅・加藤信昭の4名の高野山ラマ研究生は本日高橋大善と厚和に着。(965)
4.-- 高野山大学・堀内寛仁はラマ廟入りを志願して本日渡満する。蒙古実務学院に入り、協和会ラマ研究生として語学を学び、11月興安南省葛根廟に入る。(993) S.21 帰国
8.04 鎌田信海(満州ラマ)、開魯で病死。(992)
9.09 北京高野山別院で中日密研主催の倉持宗務所長一行の歓迎会。(1036)
9.10
〜20
烏蘭察布盟青年ラマ講習会が開かれ、この指導のために厚和の日本ラマ研究本部(改称)の高橋大善・内海勝慧・竹本寛隆が出席。(984)
9.14 張家口・阿彌陀寺改築工事完成。落慶式。(985)
10.01 高橋大善、百霊廟に烏盟ラマ青年学校を開設し、日本語の教授をする。(988・989・992)
10.07 ラマ教大会。於張家口北支開発会議室に高橋大善出席。(988)
10.27 高橋大善(蒙彊開教監督)死亡。(990)
11.06 和田性海の導師で仮埋葬式。(993)
11.04 ラマ総会あり。巴彦塔拉盟支部結成に田尻・竹本の開教師出席し、理事に推挙。(993)
11.09 田中清純(67才)死亡。(1042)


6.02 中村興亜部長・大塚主事・神島ラマ研究所主任の一行は、ラマ教工作のため入蒙。本日厚和に着。蒙彊政府と会談の結果、ラマ教対策における宗教部門について全面的依頼を受ける。
6.04 包頭着。7.01 帰国。(1015・1016・1020・1021)
6.14 笹井敬仙・石川素光・木戸憲祐・林正盛・椎名宥敞は、ラマ研究所(東京)で修学中のところ入蒙し、本日厚和の興亜義塾に入る。(1020.1022)
6.-- 清水文教・橋本光宝、厚和着。(ラマ研究所出身)(1020)
9.-- 日本ラマ研究所本部副主任・椎名宥敞は、北京雍和宮内にラマ教連絡所を設置するため、北支班(?)と会見。(1032)
12.08 厚和・日本ラマ研究本部は厚和ラマ印務所と共同主催で、本日蒙古復興綏遠地区ラマ教大会を開く。政府・ラマ研究生参加。(1048)


2.02
〜08
蒙古教育会主催・日系教員錬成会が張家□大使館にてひらかれ、木戸・望月・椎名・石川・林・神山等ラマ研究生参加。日本語の普及・現地教育現状こついて協議。(1053)
2.09 蒙古政府興蒙委員会主催・ラマ教育施設審議会が開かれ、竹本ラマ研究本部主任参加。(1056)
4.-- 平川祐円(ラマ研究生)死亡。(1062)
6.18 神島祐光(宗務所前ラマ研究所主任)は、蒙古自治政府・興蒙委員会嘱託として厚和に招かれ、本日宗務事情調査として蒙彊建設隊とともに、百霊廟へ向かう。(1074)
7.-- 厚和の日本ラマ研究所は、計画中の連絡所を本年設立されたラマ印務所内に仮設。(1075)
8.-- ラマ研究所(厚和)に安岡総旬・久原性海が入所。(すでに研究生3名が死亡)(1085)
10.-- 真言宗々務所は日本ラマ研究所厚和本部の機構改革を19年度に実施すると言明。(1086)


1.03 厚和日本ラマ研究所本部は本部総会を開き、新年度の方針を決定し、従来の教育部・調査部に加え、出版部の設置を決定。(1102)
4.-- 日本ラマ研究所本部は、昨年6月認可された蒙蔵塾の拡張を本年度の方針の一つに決定したが、竹本寛隆はこの打ち合わせのため帰国。(1111)