当院は、江戸時代に入って最も隆盛を迎えました。徳川家康公は、江戸城入府直後の慶長六年、東海道五十三次の宿駅制度を制定されました。この時平塚宿の目印として、三河以来の譜代の家来として加藤・成瀬の両家を平塚宿の本陣家として置き、同じく宝善院を本陣菩提寺と定められました。これによって家康公は当院を平塚宿の寺院方差配寺と決められ、同時に広大な寺領を安堵されました。江戸時代三百年を通じて当院は平塚宿菩提寺として平塚の中心的寺院でした。当院では今も徳川家歴代将軍のお位牌をおまつりし、当院大過去帳にははその戒名がつづられております。当時の文献を見ますと、本陣に大名が泊まったときには、お付の侍たちが当院にも泊まったとあります。いわば民宿のはしりのようなものでしょうか。 |