− A級戦犯七氏の墓地を参拝 −
平成20年12月12日 宝善院住職 松下隆洪


 東京裁判によって絞首刑となった、いわゆるA級戦犯七名の墓地が何処にあるかを知っている日本人はそう多くはないと思う。最大の理由は、なぜか大新聞・テレビ各局が墓地の所在について、その事実を報道したがらないからだ。
 七名は昭和23年12月23日、巣鴨プリズン(跡地は現在「池袋サンシャインビル」となっている)で絞首刑のあと、横浜の久保山火葬場で火葬にされた。日本占領軍・最高司令官マッカーサーは遺体も遺骨も家族への引渡しを拒否した。そこで弁護士ら関係者数名は、クリスマスの深夜、浮かれる米兵の目を黒装束で身を隠し、文字どおり命がけで遺骨の一部を火葬場から奪取した。遺骨はいくつかの地を流転したあと、昭和35年、関係者の努力で、愛知県幡豆郡幡豆町(はずぐんはずちょう)の三ヶ根山(さんがねさん)山頂に合祀墓がつくられた。以来ひっそりと関係者、遺族により供養されてきた。
 命日に近い12月12日、住職は京都での会議の後、七氏の墓地をひさしぶりにお参りした。
 新幹線を「三河安城駅」で降り、JR東海道線に乗り換え約30分、「三ヶ根駅」(さんがねえき)で下車。タクシーで20分ほど「三ヶ根スカイライン」を登ると「殉国七士墓」を中心とした、広大な記念廟に着く。入り口に建立の由来が大きな石碑に刻まれている。今その原文を紹介すると、

殉国七士廟由来

東條英機(元陸軍大将)
武藤章(元陸軍中将)
松井石根(元陸軍大将)
木村兵太郎(元陸軍大将)
土肥原賢二(元陸軍大将)
広田弘毅(元総理大臣)
板垣征四郎(元陸軍大将)

 昭和20年8月15日に終戦となった太平洋戦争(大東亜戦争)の責を問い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの11ヶ国は極東国際軍事裁判を開き、事後法に依り審判し 票決によって右7名に対し絞首刑を決定し、昭和23年12月23日未明 前記A級戦犯7名の絞首刑が執行されたのである。 当時としては命がけで 火葬場から東條英機大将を始め A級戦犯7名の遺骨を拾得しようと決心したのは、絞首刑の判決が云い渡された 昭和23年11月12日午後のことであった。 なぜならば 各担当弁護士が、遺体の家族引渡しの件でマックアーサー司令部を訪ねたが 了解を得る事ができなかったからである。 このまゝでは遺体も遺骨も家族には引渡されず 極秘のうちに処分される事が明白となるので、「罪を憎んで人を憎まず」という 日本古来の佛教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない。 又日本の将来の平和追求のためにも 日本国の犠牲者として 罪障一切を一身に引受けて処刑される7名の遺骨は 残さなければならない。 そこで遺骨だけでも家族に何とか渡したいとの一念により 大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当っては綿密な計画を要した。 それには先ず刑の執行日を速やかに探知しなければと 極東裁判米国検事某氏よりやっとの事で7名の刑の執行日は クリスマスの前日12月23日で、火葬場も横浜市久保山火葬場と推察する事ができた。 横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通し、久保山火葬場長 飛田美善氏の協力を得ることにも成功した。 しかし当日は米軍の監視が厳重であり、一度は当初の計画通り7名の遺骨若干を一体ずつ別々に密かに米軍の眼を盗んで奪取し、一応計画は成功したかに思われたが、飛田氏がこれら遺骨の前の香台に 日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審に思い、感づいた米国人によりこの遺骨は 再び米軍に取り戻されてしまった。 しかし、その時遺骨本体は既にトラックに積み込まれた後であったので 米軍も面倒と思ったのか、奪取した7名の遺骨を全部一緒に混ぜ、幸いにも近くにあった火葬場内の 残骨捨場に遺棄して帰ったのである。 この時米軍が持ち去った7名の遺骨は 全て粉砕し太平洋上に投棄されたとの風評があるが、どの様に処理されたのか真偽のほどはわからない。 そこで、翌24日はクリスマスイブであり、浮かれて米軍の見張りが手薄になる事を知った 三文字正平弁護士と興禅寺住職市川和尚は、木枯らしの吹き荒ぶ夜半 黒装束に身を固め、飛田火葬場長の案内で目的の現場に入り込んだ。 周囲は暗くても、灯火と物音は禁物である。 骨捨て場の穴は深くて手が届くはずはなく、人が入れるような入口もないので 思案の結果 火かき棒の先に空缶を結び付け苦心して 遺骨をすくい取ることに成功し、普通の骨壺1個にほゞ一杯を拾い上げて密かに持ち帰った。 見張りを気にして手探りで遺骨をかき集める作業は 想像以上の大仕事であった。 遺棄された真新しい真白な遺骨は まぎれもなくこの世に唯一の7名の遺骨であり、これを奪取することに成功したことは、三文字弁護士にとっては一生を通じ 命を賭した熱く長き一日のできごとであった。 こうして取得した遺骨は一時人目を避けて 伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後 遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地 三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり、昭和35年8月16日静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われたのである。
 以来毎年4月29日の天皇誕生日の良き日に 例大祭を行うとともに、時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客も花を手向けて供養する数を増し、更に戦病死された戦没者の霊をまつる 慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々ご参拝に参る様になり、世界平和を祈願する多くの人々により 三ヶ根山スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である。

弁護士 三文字正平 書 昭和59年10月31日 建立