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− お稲荷さんに会いに行こう −
お大師様と稲荷神
宝善院住職 松下隆洪
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京都で友人のお嬢さんの結婚披露宴に出席した後、「紀伊田辺」に行ってきた。
「紀伊田辺」は京都駅から在来線の特急オーシャン・アロー号で新大阪、天王寺、和歌山を経由して約3時間。紀伊半島西側の真ん中辺り、太平洋に面した海岸集落で、世界遺産・熊野古道の出発地・滝尻王子が所在しているところでもある。源平の熊野水軍の発祥地、弁慶の生誕地、歌舞伎の娘道成寺の主人公・清姫の故地、軍艦マーチの作詞家・鳥山啓の生誕地など有名人続出の地でもある。
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田辺駅前・巨大弁慶像 |
前からおりがあったら紀伊田辺に行ってみたいと思っていた。というのはそこが弘法大師・空海とお稲荷様がはじめて出会った土地と聞いていたからだ。名人・円生の何とかいう落語のまくら(前口上)に江戸の名物を次のように唱えている。「江戸で流行は、武士鰹(かつお) 大名小路・広小路・云々・・火事に喧嘩に、ちゅうっぱら(すぐに腹を立てる江戸っ子の性癖)、伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と。つまり江戸では犬の糞ほど、そこらじゅうにお稲荷さんが祭られていたらしい。京都の伏見稲荷によれば現在も全国に4万社を数える、わが国最大級の信仰形態である。そのお稲荷様と空海の不思議ロマンスをのぞいてみたかったという話し。
これも不思議な話しだ。
古文書・伝説によると弘法大師・空海は弘仁7(816)年、熊野詣での途中、紀伊田辺に滞在しておられた。
ある日、ある時、お大師様は身長2メートル40センチ、女性二人と子供二人を連れ、稲を担いで杉の杖をついた、何とも言えない怪人物に出会った。その大男がいわく、
「ワシは稲荷神だ。あなたとはすでに唐土で面会している。これからあなたの佛法興隆事業をお手伝いしようと思う」
と、のたまわれた。
お大師様もたぶん驚き半分、感謝半分で、
「確かに貴方とは先年、私が唐に留学していた時お会いした記憶がある。私の佛法興隆事業をお助けくださるのはたいへん有り難い。実は私は今、京都の東寺で、わが国に密教を興隆しようと考え、大事業に着手したところで、ぜひ貴方のお力をお貸し願いたい。ついては、ぜひ京都の東寺までおいで願えないだろうか」
お大師様とお稲荷様は東寺での再会を約束してその場を別れられたという。
紀伊田辺駅より西北へ数キロ行くと、田辺市稲成町(いなりちょう)がある。ここには真言宗御室派・高山寺があり、その門前に古色めいた石柱が建っている。ビックリするがその石柱に次のように彫られてある。
「弘法大師 稲荷神 値遇之霊跡 高山寺」 |
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弘法・稲荷の面会スポット |
つまりお稲荷さんとお大師さんが初めて面会されたのはここであるという石柱である。高山寺は海抜数十メートルの小山にあるのでそれなりの面積もある。この丘のどの辺りで面会されたのだろうかと思い、寺の庫裡へ伺い質問してみた。ご住職はあいにく葬儀にお出かけの前で、直接お話はうかがえなかったのだが、「文献上の資料もないし、はっきりとしたことは分からない」ということだった。
高山寺は聖徳太子開創とも伝えられる真言宗の名刹で、境内には日本博物学の泰斗、南方熊楠や合気道の創始者、植芝盛平の墓があることでも知られている。南方熊楠先生は私も青年時代を紀州高野山で学んだ学生の一人として、紀州が生んだ大先輩の墓を一度はお参りしたかったのである。
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高山寺の多宝塔 |
南方熊楠の墓地(高山寺) |
南方熊楠記念館 |
ところで高野山からお大師様はどのようなコースで紀伊田辺まで歩いてこられたのだろうか。あるいはどのような風景を楽しみながら歩かれたのであろうかと思い、紀伊田辺から龍神温泉へ山中を、高野山への逆行コースをタクシーで走ってみた。
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かつて高野山は大阪難波から南海高野線で行っても、有料道路を使用しても、その先が無い袋小路だった。そこで参拝客はどうしても高野山に一泊せざるを得なかった。それが昭和55年、高野山から龍神温泉を経て紀伊田辺へつうずる有料道路が開通、それまでの高野山の宿泊客はいっきょに龍神温泉から紀伊田辺、熊野古道から白浜温泉に大移動してしまった。さらに平成15年には高野龍神スカイラインとして無料開放され、白浜空港からは、ジェットで羽田へ1時間の距離となり参拝客のコースは大変化し、高野山は経営的にも大変難しいことになった。 |
白浜・紀伊田辺上空から |
歴史の皮肉だが、お大師さんが龍神温泉を経て紀伊田辺へ降りてきた道が、いまや高野山の集客にとって苦しみの原因にもなっている。
高野山から龍神を経て田辺・熊野に至る道路(高野龍神スカイライン)は現在舗装された2車線道路だが、私の学生時代は未舗装の細い道だった。それ以前は古代に通ずる獣道であったろうから、お大師様がこの辺りを通られていてもふしぎはないはずだ。
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高野山龍神スカイライン |
東寺・南大門 |
お稲荷さんとお大師さんが京都・東寺での再会を約束され別れた7年後の弘仁14(823)年4月13日、なんと東寺・南大門にその大男があらわれた。紀伊田辺で別れた時そのままの姿で、二人の女性と二人の子供を連れ、稲を担いでいる。
「お約束どおりやって参りました、これから東寺とあなたのために精々働きましょう。」
お大師様は大変お喜びになられ、
「これはこれはお稲荷様、よく訪ねてくださいました。貴方様のお力をいただき、私の東寺の仕事も、密教を通じておこなうこの国をよくする仕事も、きっと、きっとうまく行くと思います。東寺にはお稲荷様ご家族をお泊めする場所がありませんので、すぐ近くの『芝守り長者の屋敷』にしばらくご滞在ください。」
お稲荷さんはお大師様をお助けするために京都にこられたのだが、その最初の滞在先は「芝守り長者」の屋敷であったという。現在の八条「伏見稲荷 お旅所」が、「芝守り長者の屋敷跡」だといわれている。例年の伏見稲荷大祭で、伏見稲荷の御輿はこの「伏見稲荷お旅所」にお泊りになり、ここが祭りの中心地に今もなっているし、お帰りには東寺に御輿は立ち寄り、東寺僧侶の供物を受けることになっているのは、このような歴史があったのである。
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伏見稲荷お旅所 |
御輿安置所 |
お大師様はお稲荷様の為めに「芝守り長者」の屋敷の中に、稲荷神のために祭所を設けられた。ということはこれは、いわば日本最初の稲荷社と言えよう。その後この稲荷神は移動して、現在は京都・東山の泉涌寺内に移っている。 泉涌寺塔中の「善能院」の山門前に、「弘法大師開創 日本最初稲荷社」の標柱が立っている。
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泉涌寺 善能院入り口 |
山門をくぐると右手に、古色蒼然たる稲荷神の社が二基見える。 社の屋根の上に「日本最初稲荷」の額が掲示されている。
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日本最初・稲荷の社 |
社の額 |
「日本最初 稲荷神石社」の文字 |
こうしてお稲荷さんの旅は、紀伊田辺の高山寺に始まり、東寺南大門、芝守り長者屋敷=伏見稲荷お旅所、泉涌寺・善能院までたどってきた。
その後お大師様は朝廷に願い出て、お稲荷さまのお社を現在の伏見稲荷の地にお祭りされたのである。明治維新まで現在の伏見稲荷社務所の辺りに愛染院という真言宗の寺があり信者の差配から全国の稲荷信仰の要をしていたという。 |
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京都伏見稲荷 |
参考文献・本原稿校執筆にあたり大森恵子氏の『稲荷信仰と宗教民族』(岩田書院 刊)に多くの示唆を受けました。注記して御礼申し上げます。
筆者の高校時代の先輩に平塚・高久製パン社長・高久榮二氏がいます。(同社では明治の食道楽家で平塚に在住した村井弦齋にちなんだ「弦齋カレーパン」が有名です)先年お父上の葬儀の時、当院檀家となられ、その後引き続き高久稲荷の初午の祭司をお願いされることとなり、必然的にお稲荷さんについてお話しする機会なども増えてきました。そんな事情もあり、前から気になっていた紀伊田辺からお稲荷さんのルートを調べてみて、今回の原稿となりました。
日本の稲荷信仰のルーツについては五つぐらい学説があり、本論はそのひとつにすぎません。仏教的稲荷信仰に愛知県豊川稲荷があります、これについては比較的に歴史的根拠ははっきりしているように思います。それでも不思議なことは、豊川稲荷奥の院に弘法堂があり、弘法大師が祭られていることです。今のところその根拠は不明です。おりがあれば調べてみたいと思っています。なお、村井弦齋の出生地は豊川稲荷近くの、愛知県豊橋でした。
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愛知県の豊川稲荷 |
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豊川稲荷 奥の院 弘法堂@ |
豊川稲荷 奥の院 弘法堂A |
豊川稲荷 奥の院 弘法堂B |
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