− ダライラマから山頭火 −
平成21年11月2日 宝善院住職 松下隆洪


 高野山時代の友人の寺にチベット式供養塔とチベット高僧が描いた砂曼荼羅ができあがり、開眼供養がおこなわれるので、出席しないかという有り難いお招きをいただいた。

 当日のお導師さまはダライラマ法王と松長高野山真言宗管長だというので願ってもない機会と、長男夫婦と孫二人と娘夫婦まで七人の大部隊で四国・新居浜の萩生寺(斎藤友厳住職)に参拝してきた。供養塔はインドの石材を用いてインドで制作された高さ2メートルの荘厳なもので開眼供養の当日、ダライラマ持参の仏舎利が封入供養された。松長高野山管長には大学卒業論文の助言教官でお世話をいただき、当日、何十年振りにお会いしたのに奥様が「松下さん?」とお声をかけてくださったのはありがたかった。

 開眼供養は前日の大雨もやみ、まずまずの天候の中、二百人近くが待ち受ける中、ダライラマ、松長管長らが昼過ぎ到着され、ダライラマは一人一人の出迎えの人と握手をされておられるのが印象的だった。インド、東京、四国の長旅に疲れも見せず早速法要が始まった。日本側の供養の後、法王の低音のチベット・マントラの誦経がはじまる、空には雲が流れ、境内の立木の間には青い空と、曇天がマンダラのように交差していた。

チベット供養塔を開眼するダライラマ(中央)
松長高野山管長(右)・斎藤萩生寺住職(左)

 供養の後、私は家族と別れて松山に足をのばした。松山城近くにある俳人「種田山頭火」の草庵「一草庵」をかねて訪ねてみたかったのだが、その機会が今日までなかったからである。数年前にはやはり宗派の集会の途中、山口・小郡の「其中庵」にも立ち寄ることができた。

 山頭火には行乞流転の俳人 飲んだくれ 自由律俳句の双璧 ただの乞食坊主 等々、ありとあらゆる言われ方があるが、いちいち真実だと思う。

 山頭火は四十四歳の年、妻子を捨て母の位牌を背負い行乞の旅に出た。以来十四年の間、親類友人に借金の山を作り、毎日飲んで、歌を詠んだ。昭和十四年、五十七歳、四国遍路の途中、友人の世話で松山市の真言宗・御幸寺境内の納屋に「一草庵」結び、翌年十月、五十八歳で願いどおりころりと往生した。

鴉啼いて私も一人(大正15年・山頭火)
この旅、果てもない旅のつくつくぼうし(昭和3年・山頭火)
一草庵の山頭火

 山頭火の果てもない旅と、ダライラマの旅が私の脳裏のどこかで重なる。もしかするとダライラマの生涯中には、チベットの平和解決はできないかもしれない。それでもダライラマは果てもない旅を続けなければならない。ダライラマの壮大な願いと、飲むべい山頭火の悲壮など比べ物にもならないといわれるかもしれないが、なぜか私には二人が果てもない旅を続けているのだと思えて仕方なかった。

 さて、どちらへ行こう風が吹く(昭和9年・山頭火)