− 赤穂浪士と宝善院 −
先代住職 松下俊弘和尚の事
宝善院住職 松下隆洪


 富森叡児氏の『うろんなり助右衛門 ある赤穂浪士とその末裔』によると、大石蔵之助は浅野内匠頭(たくみのかみ)切腹後、 一往復半、東海道を上下し、三度、当院前を通過している。
 江戸時代のその頃、当院は東海道五十三次平塚宿本陣の菩提寺で、 本陣の真正面に位置し、東海道から山門越しに本堂を眺められたので、旅の道すがら、大石も当山の方角を見るようなことはあったろうと思うのである。
 初めて大石が平塚宿を通ったのは、浅野内匠頭が切腹した年の元禄14年11月の江戸訪問の時の往復。翌年、吉良邸討ち入りのため江戸に入府した、元禄15年10月で、 その月の26日、大石は川崎平間村の同志・富森助右衛門宅に入っているので、前日の10月25日、当宿を通過したと思える。
 大望を果たし、江戸で切腹した蔵之助には、 帰路はなかったのでつごう、一往復半、東海道を上下し、当院前を三度通過したことになる。
 なぜそのことと宝善院が関係あるのかということなのだが、元禄15年は西暦1702年となり、その241年後、播州赤穂の大石蔵之助の生家近くで 出生した男が、当山の住職に赴任したということに不思議な感動を覚えるのである。
 吉良邸討ち入りのため、必死の情念を持った大石蔵之助が、当山の前を歩いた241年後、蔵之助の生家のそばで生まれた男が、住職として 当山に赴任し、大石が歩いた方角を眺めた。当院の先代住職・松下俊弘和尚は、播州赤穂の生まれで、そのことを生涯誇りにされておられた。
 人間の情念も電気信号の一種だというのなら、その信号の軌跡は空中に残らないのだろうか。大石蔵之助は、身長はそれほど高くなかったということだから、 情念の電気信号の軌跡は、地上五尺五寸ほどの所を江戸に向かって、赤いパルスとなって残っているはずだ。あれから300年、その軌跡は今も江戸に向かって走っているはずだ。 (参考写真 先代住職 播州赤穂請来の弘法大師 蔵之助が歩いたしばらく後の平塚宿