― 中国「魚山」の歴史と近況 ―
刊行会代表 松下 隆洪

 ■ はじめに
 鈴木智辨/加藤宥雄声明大全刊行会ではこの度会員各位のご協力を賜り、本全集の刊行を無魔成満できました。約五年にわたる大事業でしたが、東寺創建千二百年という記念すべき年に、宗内外各師・各友のご賛同を賜り、700セットという大部を国内外に頒布する事ができ、この事業が完成いたしましたこと、厚くお礼申し上げるしだいです。
 また過日会員各位にお知らせ致しましたように、この度刊行会では、声明全集の刊行を記念して、中国「魚山」に調査団を派遣する事となりました。これは中国「魚山」の現状を宗内外の皆様にお知らせし、併せて日本に伝わる声明の源流研究の発端を開くことが出来ればと考えての、計画であります。ぜひ会員各位におかれましてもご賛同賜り、御参加下さいますよう、お願い申し上げるところです。(6頁に魚山探訪旅行の説明があります)

 ■ 事の発端
 さて、以下は私事に亘り恐縮ですが、次のような事がありました。
 岩原諦信先生が歴史的名著「声明の研究」を京都・藤井佐兵衛から出版されたのは昭和7年のことであります。先生のご自坊は、先生のお言葉を借りれば「寺は海抜三千尺の那岐峰の中腹に位し、津山駅へ五里、自動車待ち合いへ一里、五百の檀徒へは神代道を徒歩によらなくてはならぬという不便さで、研究とは全く絶縁的境遇」の中で、あの大部のご著作を刊行されたのであります。
 同書は昭和四十六年再販され、私は高野山大学在学中に同書を手にする幸に会う事ができました。以来私は、岩原先生のご著作の中に、ずっと不思議に思っていた一つの疑問があります。私が今回、刊行会代表をお引き受け致しましたのも、実はその疑問を解く機会があるかも知れぬと、期待したからに他なりません。長年の疑問の取っ掛かりまではたどり着いたような気がします。
 それは次のような事であります。

 ■ 「魚山」は印度と中国にあった
 岩原諦信先生の「声明の研究」冒頭、「声明小史」の章に次のような指摘があります。
 「今からおよそ二千四百余年前、大聖釈尊が入滅し給うや、高弟優婆梨尊者は魚山に帰ってその妙音をもって広く衆生を度しておられた。ところがその後およそ千二百年をへた頃、魏の武帝の第四子・陳思王が印度に渡って魚山に上り、優婆梨の妙音の流れを汲んで支那に伝えた。しかし魚山という山は支那山東省泰安府東河県にもあるとのことで、陳思王が登ったのは印度ではなくて、支那の魚山のことであるともいわれる。陳思王は文章と音楽の天才で筆を取ればたちまちに文章になり、経を読めば自然に梵唄の曲節をなした。一日魚山に遊んで空中に梵歌を聞いて、これを譜に写したと伝えられる。この流れが百(ママ)余年の後にわが国に伝来されたのである。」
 「百余年後」は「千百余年後」と思われますが、岩原先生は「魚山」がインドと中国にあると指摘されておられます。
 先生の文章からは、可能なものであれば、ぜひ自分もその地を訪ねてみたいというお気持ちがひしひしと伝わってくるのですが、先生ご活躍の時代(「声明の研究」の初版は昭和七年)の社会状況からいって、とてもそのような旅行ができる環境に無かったでありましょう。先生が実際にインドと中国の魚山に行かれたというのではなく、何かの文献からのこれは指摘であろうと推察できます。
 印度の魚山については、それがどこなのか私にはいまだはっきりとは致しません。しかしどこかにあるのには違いありません。いずれ印度の魚山についても、この会報でご報告できる機会があると思いますが、この際は、日本の声明の源流ということから考えれば、取り敢えずは中国の魚山がどこにあり、そこからどのような声明が日本に伝来したのだろうかという疑問が沸いてきます。
 現代中国において、中国民族音楽についていくつもの著書を出しておられる田青先生によれば、日本の声明に類似した旋律の音楽は現代中国には存在しないということです。すると日本の声明は、ある時代の中国の旋律がわが国にもたらされ、それが化石として残った、いわば中国音楽のシーラカンスと言えるものなのでしょうか。ではそれは中国数千年の何時の時代に起きたことで、あの広い中国のどの地方の音楽なのであったのだろうかという疑問が残るのです。それが私がずっと不思議に思ってきたことなのです。

 ■ いったい中国「魚山」はどこにあるのでしょう
 岩原先生の著書には「魚山」の場所について「山東省泰安府東河県」とされていますが、実は「魚山」は広い中国ではまことに小さな集落なのです。ですから地図上で「魚山」を見つけるにはそれなりの地図でないと出てきません。
 私の手元には一九九二年北京で発行された「山東省地図」がありますが、確かに岩原先生指摘の場所と思えるところに、「魚山」があります。そこは中国・天下一の名山で知られる泰山の麓の町「泰安」の西方、約百キロ、済南の南西、約百キロに位置し、黄河をはさんで東阿鎮と相対する、中国のどこにでもありそうな辺境の寒村のように見えます。あの広い、古い、中国にあっても、残念ながら地図で見る限り、ここが日本声明のルーツと思えるような遺跡地は周辺に見当たりません。こんなところがどうして声明の聖地なのでしょうか。どうやって、ここから声明「梵唄」は日本にたどり着いたのでしょうか。思えば不思議な伝説です。

 ■ 中国魚山と声明伝説の根拠
 岩原先生が「声明の研究」冒頭に載せたあの伝説はそもそも一体どこに出典があるのでしょう。
  『大正新修大蔵経索引』で「魚山」を引くと2項あり、確かに、岩原先生指摘の伝説がいずれにも出てきます。

『大正新修大蔵経索引』「魚山」(五二) 〇三−五、一一九b
〇四−一、三六五c

 前書は『梁弘明集 巻第五 辨惑編』にあたり、これを『国訳一切経』の該当章から引用すると、次のような話となります。

  「辨惑編 第二の一 辨道論 魏曹植」
「(中略)植、字は子建、魏武帝の第四子なり。初め東阿郡王に封ず。終わりて後、諡して陳思王と為す。幼にして珪璋を含み、十歳にして能く文を屬す。筆を下せば便ち成り、初めより改むる所無く、世間の術芸、畢く善くせずということ無し。邯鄲の淳、見て駭服し、称して天人と為す。植、佛経を読む毎に輒ち流連嗟翫して以為らく、至道の宗極なりと。遂に転読の七声、升隆曲折の響きを製し、故世の諷誦、威な焉を憲章す。甞つて、魚山に遊び、空中に梵天の讃を聞いて乃ち墓して後に伝ふ。則ち備さには梁の法苑集に見えたり」とあり、

 もう一書は、『集古今佛道論衝巻甲』唐 西明寺 釈氏(釈道宣撰)で、これを『国訳一切経』の訳文と注釈で抄訳すると、つぎのようになり、大意は前掲書とほとんど同じです。

  「魏の陳思王 曹子建の辨道論」
 「(中略)陳思王の曹植は、字(あざな)は子建と言い、魏の武帝の第四子であった。最初は東阿郡の王に封じられたが、死んでから陳思王と諡名(いみな)を贈られたのである。
 曹植は幼くして玉器の才能を秘し、十歳で素晴らしい文章を書いた。それはまるで、筆を取ればそのまま名文と成って、後から少しも直すところがない。世間の人々がするものはなんでもできて劣るところがなかった。三国時代、黄初中博士として名をはせた邯鄲淳は曹植を見て、この人物はこの世の人ではないとさえ言って、曹植のもとにひれ伏す程であった。
 曹植はまた仏典を好み、万巻の経典を読んで、仏の教えこそは究極の教えであるとした。曹植が経典を転読するとき、その声は自然と七種の声調となり、歌となった。人々はそのリズムを好んで歌い、自然と世に広まったものである。 ある時、曹植が魚山に遊んだ時、空中のどこからともなく梵天の響きが聞こえてきた。その声はあくまで清涼で、人間の心の奥までしみるような響きであった。曹植はその響きに打たれ、時の過ぎるのを忘れてしまった。不思議なことに侍者には全く聞こえなかった。曹植はこの神秘体験をとうして、いよいよ仏教の信者となった。そこでさっそく、耳にしたばかりの梵天の不思議な歌を曲譜に書き写し、これを声明「梵唄」としたのである。
 曹植は後にこれに詩文をつけ、整理して曲譜にまとめた。声明「梵唄」は、ここから始まったのである。曹植の作曲と伝えられる梵唄には六種類あることが、梁の法苑集に記載されている」

 長い引用となりましたが、岩原諦信先生の「声明の研究」冒頭に出て来る、中国魚山と声明についての伝説は、他にも出典はあるでしょうが、だいたいこのあたりから出ていると言ってよいでしょう。
 ではこの曹植=陳思王=曹子建とは歴史上どのような人物であったのかということになります。

 ■ パソコンゲーム「三国志」と曹植のプロフィール
 パソコンゲームの「三国志」は、子供の間でいま爆発的に流行っていて、ゲームには攻略本という解説書が売られています。ここになまじの「学問的解説」よりよほどおもしろく、曹植=陳思王=曹子建についての人物紹介があります。

  「古代中国を舞台に、名だたる英傑たちが、知略と武勇の限りをつくして覇を競う一大ロマン『三国志』…千八百年の後のいまなお人々に愛され続けているこの雄大な物語」(KOEI「三国志」U ハンドブック シブサワ・コウ編より)が、われらが声明の伝説上のルーツ「曹植」の生きた時代です。
 曹植の父であった曹操は「『三国志』中最大の英雄。策略にすぐれ、各地を転戦して黄巾の乱以来の動乱を平定した。自分の感情を抑えて冷静な計算に従い、過去にこだわらず才能あるものを登用した。二二〇年に六十六歳で死亡」(前掲書)
 曹植は「曹操の四男。文章を作ることがうまかったので、曹操に特別に寵愛された。何度も後継者になりかけたが、大酒飲みで自分の地のままにふるまったので、次第に寵愛も衰えた。曹丕(そうひ)が即位すると疎んぜられて飼殺しにされた。」(前掲書)
  『三国志』最大の英雄・曹操の第四子、曹植こそが「魚山」で梵天の声を聞き、声明梵音を作曲したと伝えられる人物なのですが、人物評価はあまり芳しいとは言えません。文学的には大変な才能をもちながらも、どうも酒で身を持ち崩した大酒飲みのように言われてます。不思議は不思議を呼ぶばかりです。
 魚山には今、曹植の墓と伝えられる墳丘があり、そこを魚山と呼んでいます。
 中国政府は最近ここを発掘し、数百点にのぼる三国志時代の貴重な文物を発掘しました。さらに同地に「魚山公園」と「魚山博物館」の建設を計画しているとのこと。日本声明のルーツ探訪は、思わぬ事態を招いてきました。これも「空海の謎の風景」の一つでしょうか。(以下次号へ、本稿執筆には大谷大学岩田教授、種智院大学井上教授のご協力をいただきました)