― 魚山博物館館長 劉玉新副館長の挨拶 ―
一九九六年六月十九日
通訳・張心梅
抄文・松下隆洪

 ■ 魚山の曹植伝説について
 魚山は歴史上有名な泰山山脈に属し、海抜は八二メートルあります。魚山の海抜はけして高くはありませんが、中国では山が有名になるのは山の高さによるのではなく、その山に魂があるかどうかによって決まるのです。
 曹操の子として有名な曹植は、生前この魚山を大変気に入っていました。彼は紀元二二九年、東阿王としてこの地に赴任しましたが、在任中はよくこの魚山に登り、詩を作ったり、音楽を作ったりしました。中でも声明「梵唄」を作ったのは有名な話です。
 このことから曹植は、中国仏教史の中で、仏教音楽の創始者といわれております。中国の多くの仏教書の中に曹植が「梵唄」をここ魚山で作った話が出てきますが、この伝説はこの地方に多く伝わっております。
 現在、魚山は省政府により整備工事中ですが、計画の中には、曹植作曲の声明が聞こえるコーナーをつくる計画もありますので、皆様からいただいたCDは大変役に立つと思います。
 中国人の本の中には、曹植の伝説がよく書かれております。それらによりますと、ある日、曹植が魚山の山頂に座っている時、空中からきれいな音楽が聞こえてきました。その音楽を基に「梵唄」を作曲したといわれています。この伝説は「法苑珠林」にあります。曹植が作曲した声明は現在ほとんど残っていませんが、現在の中国仏教音楽のなかで、「釈迦大讃」「仏宝大讃」の二曲は、曹植の作曲した声明の中から出たものであると言えましょう。

 ■ 魚山開発計画の模型を前にして
 これが魚山開発計画の模型です。(写真)曹植は東阿王としてこの地に赴任し、魚山を愛してよくこの山に登りました。後日、曹植はこの地を離れて死んだのですが、この魚山が懐かしく「自分の死後は、必ずこの魚山の麓に埋葬してほしい」と遺言しました。そこで死後二年後、ここに墓を作ったのです。
 現在、魚山には総門と城壁風の囲い、アズマヤ程度が作られていますが、開発計画では、今後、曹植を祭るお寺として「子建寺」や、記念館を建設の予定です。かつて魚山頂上に「魚娘廟」がありましたので、これも再建の予定です。全体計画の完成は二〇〇一年で、総予算は中国元七六〇万元であります。(日本円約一億円)

魚山開発計画を前に、説明する劉魚山博物館・副館長
右となり藤原東寺真言宗宗務総長(参拝団団長)

 ■ 魚山曹植墓出土品展示室にて
 展示されている、これらの品は曹植の墓の中から出土したものです。曹植の墓は一九九一年に発掘されました。墓の中からは全体で一三二点の出土品がありました。曹植は東阿王になる間、兄の曹丕からの圧迫で寂しく、乏しい生活をおくっていましたので、死んでからの副葬品もとても少ない、貧乏な王様でした。もう一つの理由は、当時の中央政府から墓を移転する政策の提案や、簡単な墓でよいのだとする指示があり、これも豪華な副葬品がない一つの理由と思われます。
 したがって墓から発掘された品の中には、珍しいものや、宝物は一つもなく、陶器がほとんどです。これらの陶器の副葬品は、曹植が生前生活していた様子を土器で製作したもので、とても素朴なものです。
 アヒル・ガチョウ・犬など皆泥で作ってあります。
 面白いのは、発掘品の中に「丹薬」と書かれた壺がありました。「丹」は道教の薬品で、不老不死のための薬です。このことから曹植は仏教のみならず、道教も研究していたと考えられます。曹植が作曲した音楽は、仏教では「梵唄」となってますが、道教ではこれを「歩虚声」といいます。曹植は仏教に貢献したのみならず、道教にも貢献しているといえましょう。

 ■ 「曹子建墓碑」について
 この碑文は曹植の十一番目の孫が建てたものです。書道研究者には値打ちのあるものです。碑文は篆書、隷書のまじった楷書で、隷書から楷書への過渡期の特徴を示す、第一級の資料です。墓碑は隋代のものですが、北魏の時代の形式をまねています。山東省ではよく保存されている石碑の一つです。現在、碑文保護のため、この上にアズマヤを建設中です。
曹子建墓碑拓本 本物は魚山にあり
漢字の変遷を示す超一級の資料である。

 ■ 「曹植墓の歴史」について
 全体から見ると、この墓はすごく貧乏な墓であるといえます。曹植が後進貴族であったためと、東阿王となってもこの程度の貧しい生活であったことを示しているといえましょう。墓はご覧のように簡単ですが、曹植の中国仏教史に対する貢献はすごく大きいものがあります。したがって、歴史上でもこの墓をお参りする人は大変多いものがあります。
 魚山の一部が付近農民によって削り取られていますが、保護のために一九八五年から、魚山の土砂の採掘は禁止されました。
 曹植は紀元二二九年、東阿王としてこの地に赴任し、二年間在任しました。二三二年二月この地を発って、河南省の陳王となりましたが、二三二年十一月、河南省准陽(わいよう)で死亡しました。しかし曹植はこの魚山にたいし追憶の情が深く、自分の死後、遺体を魚山に埋葬するよう頼んでありました。そこで息子の曹志は、翌年、二三三年、魚山に墓を作り曹植を埋葬したものです。
 南北朝のとき、一度この墓は崩れたことがあります。一九五一年まで崩れたままの状態でありましたが、一九五一年から政府がこの墓を整備し始めました。博物館にある出土品は、一九五一年出土したものです。発掘時、棺、骨も出土したので、曹植の墓は死亡した河南省ではなく、ここが本当の墓と断定できたわけです。墓は二、三度崩れたことがありますので、今の大きさは当初の規模より小さいと思います。ここは中国「龍山文化」の遺跡でもありますので、四千年前、すでにここに人が住んでいました。曹植が詩を詠んだという、魚山の途中にある「羊毛台」という巨石は当時の祭祀遺跡と考えられます。
 一九七八年、この墓は再度崩壊しましたので、一九八五年再建し、一九九二年、山東省の文物保護単位に指定されました。九三年当時から中央へ、「全国クラスの文物」として申請し今日に至っております。
 魚山開発計画の中で、ここに記念館を建設する予定ですので、出来上がりましたら、現在東阿鎮の博物館に置いてある資料はここに移す予定です。以上が簡単な魚山の歴史的説明です。

■ (魚山参拝印象)
 劉副館長のいうように、魚山の整備は手がつけられたばかりの印象が強い。東阿県からの道路の舗装、魚山山頂への登山路整備、トイレの設置など急を要するものもあるが、なかなか進んでいない。日本の観光ガイド・ブックにも未掲載なので、ほとんどの日本人にもまだ知られていないが、魚山頂上からの黄河の絶景は、曹植でなくとも詩の一つも出るほどで、一見の価値あり。