『曹植と魚山』
 曹植が初めて梵音を聞いたところ
劉 玉 新(中国山東省東阿県「魚山博物館」副館長)
翻訳 加藤宥英(最明寺住職)&声明大全刊行会事務局


参拝団全員に魚山村村長から贈られた、曹植像土偶(黒色陶器)は村唯一の観光土産
 曹植は三国時代の有名な歴史・文化人である。史料によると、曹植は魚山で梵天の声の響きを聞き、梵唄(「魚山唄」とも言う)を創作したという。これは、わが国の仏教音楽(声明)の始まりと言えよう。
 梁時代、釈慧皎の『高僧傅・経師論』において次のように記述されている。

 「仏教の伝来以来、梵語で書かれた仏典を漢語に翻訳したものは数多く存在したけれども、(果たしてそれをどのように音読したらよいのか、世間ではまだわからない情況にあった。なぜ翻訳に較べて音訳が遅れていたかというと)梵語が偶数的な音律を有するのに対し、漢語は奇数音律を基調とするので、このことが音訳上の困難をもたらしていたと言えよう。ところが天賦の語感とあつい信仰心を有していた魏の陳思(曹植)は、魚山において仏のことばを感受し『瑞応本起』という詩文を書いた。その中で彼は梵音を適切に削除し、発音の比較的容易な漢音に音訳することに成功した。その後、この詩文は梵音学習書の模範として普く世間に流布するところとなったのである。その後、梵音の伝播者の人数は三千余人となり、彼と意気投合するものも四十二人もいたという。それから派生したさまざまな派も、陳思が先祖であると言い、彼が仏と通念し、仏の意識を感知しえたと言った・・・。そのむかし、諸天賛唄する際には、すべて韻律を弦楽器と管楽器の演奏によってのみ表現したが、梵唄は当時の
慣例にはなかったので、声と曲を適切に合わせることがもっともふさわしいことであった。もともと梵唄の起源は、陳思からであろう。」
 曹植が梵天の声を聞いた魚山は現在どこにあるか。
 黄河は山東省東阿境内を流れている。その岸辺に、突き出ている小山がある。それこそが伝説中に、「曹植が梵音を聞いて、梵唄を創作した」と言われる魚山であると伝えられている。
 魚山は泰山山脈の一部である。山の東南両側には、それぞれ黄河と小清河が流れている。そして河の対岸には、連山が起伏し、その山峰はそびえ立っていて、魚山は一つの名勝旧跡として、広々と大きな景観を見せている。
 魚山はまた吾山とも言う。その語源について『漢書・溝洫誌』では「漢武帝は黄河の岸辺に立ち、『瓠子歌』を吟詠した。彼はその中で、吾山は平らかで、あたかも巨大な平野を想起させ、又、河中の魚は飛び跳ねるように動き回り、さながら冬の白雪を彷彿させる。吾山即ち魚山である」と定義した。
 魚山の高さは、わずか海抜82.1メートル、1200余畝を占めているにすぎないが、唐時代の大詩人劉禹錫が彼の『陋室銘』一詩の中で「山は、高さにあらず、仙人がいれば、(小山も)名山となる」と詠じているように、小山である魚山も、曹植という建安時代の才子が梵音を聞いたところであり、また、死後、彼が魚山に葬られているので、山名も世間に広く知られて、名山となったのであろう。
 曹植(紀元192〜232)は、字は子建と言い、魏の武帝曹操の息子である。彼は建安文学の傑物であり、玉のような才能を持っていた。彼はわずか7才にして、すばらしい文章を書いたとされ、華麗な辞章と高い気骨で、世間の人々は彼を「繍虎」と見なした。
 魏太和三年(229年)、彼は雍丘(今の河南杞県)をたって東阿王に封じられた。ところが、彼は親族間の対立(いわゆる豆相煎)に巻き込まれて、「国王という名声だけは与えられたものの、実際上はそれらしい権力を握らせてはもらえなかった。さらに、片隅に置かれ、世間と隔絶されて、まるで牢獄のよう」であり、また「三十里外への狩猟も禁じられており、常に防輔監国官の監視下に置かれていたので、各王候らは彼をはかり知れない大人物とはみなさず、かえって軽蔑していた。(『三国志、武文世王公傳』より)
 このような環境の下にあって、彼は封地内にある魚山によく登り、詩を吟じ、賦を作り、胸の内を述べ表していた。さらに、彼は草庵を作って、深い感興を抱いて住んでいた。(いまでも、魚山西麓には、当時曹植が読書していたといわれる旧跡、即ち羊茂台というところが保存されている)
 また、釈道世の『法苑珠林』第四巻中に記載されているように、「魏時代に、陳思王曹植は、字は子建と言い、魏武帝の第四子である。幼くして、珪璋を含み、十歳にして、すばらしい文章を書いた。それは筆を執ればそのまま名文となり、少しも直すところがない。世事一般に通暁し、諸事万能の才を有していた。邯鄲の淳は、曹植にいたく感服し、「彼はこの世の人に非ず」とさえ言った。
 また、曹植は仏典を好み、万巻の経典を読んで、仏の教えこそは究極の教えであると言った。彼が経典を音読するとき、その声は自然に七種の声調を帯び、音声起伏して、忽ち歌となり、世間の人々はそのリズムを好んで歌い始めて、自然と世に広まったものである。
 ある日、曹植が魚山に遊んでいたとき、空中のどこからともなく梵天の声が聞こえてきた。その声はあくまで清涼で、人間の心の奥まで染み通るような響きであった。曹植はその声に打たれ、時の過ぎるのを忘れてしまったほどであったが、身辺の侍者には全く聞こえなかった。曹植はこの梵天の声をしみじみと感じ、この不思議な体験を通じて、梵声悟道の者となった。そこで、彼は梵声の音節をまねて、それを曲譜に書き写し、梵唄の創作に踏み出した。
 その後、曹植はそれに詩文をつけ、さらに韻律を整理して、曲譜にまとめた。声明「梵唄」の出現はここから始まったのである。」
 曹植の「魚山聞梵」の物語りは、世の中に広く伝えられ、後世の人々は、彼に敬愛の念を抱いており、魚山を東阿の古八景の一つにした。
 ある詩文は、次のように後世の人々の敬愛の気持ちを表現している。
 「宣房の要塞には吾山があり、上には陳思王の墓が横たわる。万籟息む時、梵仙の動きあたかも峡谷を伝う。」
 太和六年(232年)、即ち東阿王に任命されてから三年後、曹植は陳地に移って、陳王に封じられた(今の河南省淮陽県)。この間の頻繁な移動について、彼は『吁嗟(くさ)篇』(流転の歌・「吁嗟(くさ)」とは“ああ”という嘆きのことば)で、その気持ちをこのように述べた。
 『吁嗟(くさ)篇』
 「ああ、この転びゆくよもぎよ。世の中で、どうしてお前だけが、このようであるのか。よもぎは遥かに、もとの根より去ってゆき、朝早くから夜おそくまで、休むひまとてない。東西に七つのあぜみちをとびすぎたかと思うと、南北に九つのあぜみちをとびこえる。
 そのうち、突如として、つむじ風に巻きこまれ、雲間に吹き上げられる。これなら天の路の終点まで行けるわいと、思っているうちに、たちまち沈淵まで急降下。もうだめだと観念したが、はげしく吹き上げる風がつれだしてくれた。今度はもとの通り、田んぼの中のあのすみかに帰してくれるのであろうか。
 当然、これなら南に行くのだと思っていると、さらに北に行く。東に行くのだなあと思っていると、あべこべに西に行ってしまう。この果てしなくひろがる空間、一体どこに身をよせたらよいのだろう。ふと消えさっても、またあいかわらず生きのびている。かくてふわふわ風にまいつつ、八大沢をまわり、ひらひらとびつつ、五山をへめぐってきた。このように流転をつづけ、定住の場所をもたぬ。その私のくるしさ、誰がわかってくれよう」
                       『中国詩人選集』第三巻 曹植 伊藤正文訳注(岩波書店)より
 彼はまるで「利器」(鋭利な武器・才能)を持ちながらも、才能を発揮させるところがなかったので、いつも怏々として楽しめぬ心境であった。
 同年11月、曹植は41才で、この世を逝った。死後、彼が生前「魚山を登って、東阿に面したところに、身を埋めたい」(三国志・曹植伝)と遺言していたことに従い、息子である曹志は、二年後(233年3月)父の遺骨を東阿境内の魚山の西麓に移した。
 小山魚山は、曹植の「聞梵声」、「帰葬」という物語で、有名になった。そして、この小山こそが一代の偉人の詩魂をはぐくみ、「詩人の魂を浮き彫りにした」基盤であったのである。