− 真言宗中国開教史(一) −
日本仏教中国開教の発端
明治六年 小栗栖 香頂(おぐるす こうちょう)中国開教を目指して北京に至る
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 帰  国 ■

 中国へ松下が亡命したというバカげたジョークの中にもどったのはその年の十月初めであった。帰国した時、すでに私は早急に卒業論文を執筆しなければならないはめにあったのだが、別にこれといったあても無かった。

 そんなある晩、私は大学のM先生のお宅をたずねた。先生には前からいろいろとお世話にもなっていたし、中国の旅のことなどを酒の肴に一晩お話をおうかがいするといった軽いつもりであった。

 それがどういう具合か、話しが真言宗の中国開教のことになって、その歴史がまだ編纂されていないこと、ぜひ卒業論文にやらないかという先生のお話しから、若気の至りと酒の勢いで、「ぜひやらせてください」などと言ってしまったのである。その晩、先生と酒をくみかわすことがなければ、こういうことも無かっただろうと思えば、これも人生の奇遇なのである。

 先生に大言壮語はしたものの、文献的に整理された資料というものは全くといってよいほど無かった。「真言宗中国開教史」といっても、いったいいつごろからはじまったものやら、誰が最初に出かけたのかも分からない。

 当時の関係者が今どこにいるのかも、はじめは分からなかった。卒論の提出時期はせまってくる。これはもう本腰を入れてやるよりしょうがないと思った私は、もう一年留年して、その間に集められるだけの資料を高野山で集めよう、書くのはそれからだと考え、高野山真言宗の機関紙である「高野山時報」の大正二年の創刊号から一頁、一頁関係記事をぬきだし、まず資料カードをつくることにした。

 卒論のこと以外は何もしないと決めた私は、学友会やら当時所属していた新聞部の種々雑多なことがらからも一切手を引いて、あけてもくれても「高野山時報」を相手に読みくれた。  資料の整理をして、年表を作っているあいだに一年間はすぐ過ぎてしまった。それ以上留年を続けることは経済的にもできなかったし、とにかく「序説」という形で卒論を書きあげて、論文の口頭試問の日だった。

 若気のいたりというのか、教団をまっこうから批判していた私の論文は、四年間、いや五年間まことに騒々しかった松下という男が、こういう論文を提出して卒業するのかという教授連の多少の興味もあってか、あれや、これやずいぶん長いあいだ口頭試問の対象になった。最後に私の、「折を見て、ちゃんとした形で真言宗の中国開教史をまとめてみたいと思っています」という言葉に、サンスクリット語教授の堀内寛仁先生が、「卒業生は皆そういって卒業するんですが、卒業するとたいていそれきりで、学問をつづける人はわずかなものです」という先生の言葉は腹にこたえた。

 結局、大学を卒業した私はそれから十年、北海道から九州、朝鮮半島まで、青春の大志を抱いて大陸に渡った人間たちの足跡をたずねる旅をつづけることとなった。

 初め全く分からなかった開教師たちの名前も一人わかり、二人わかりするうちに五百人ほどとなり、その間延べ二百人ほどの人間に会い彼らの話を聞いた。

 今ふりかえってみれば、何で私がこうまでして彼らの歴史をたどってみなければならなかったのか、実のところよくわからないのである。ただ私の頭にいつもあったのは、「戦争とはいったいなんだったのか」という問いかけであった。卒業論文として私がこのことをはじめた時、私はこうした一連の宗団の行為を戦争責任として批判することに主眼を置いていた。しかし現実にはそれが、そのような単純な批判とはずいぶん乖離したものだったと、各地をたずね歩き、当事者の体験を聞くごとに思いはじめた。(戦争責任の問題については、『仏教と人間の復権』現代評論社、七一年に「仏教者の戦争責任論」として納めた。)人間の足跡をたずね歩けば、歩くほど戦争とはいったいなんだったのかという私の疑問は膨らむばかりで、私が書物で学んだ一方的「歴史」と、方法論からも遠ざかって行った。