− 真言宗中国開教史(一) −
日本仏教中国開教の発端
明治六年 小栗栖 香頂(おぐるす こうちょう)中国開教を目指して北京に至る
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 征韓論を輸出する 仏教三国同盟 ■

 北京の活仏に思いの丈を洗いざらいをぶちまけた香頂ではあったが、三国同盟はいまだ成らず、つけても風土の激変のため病気となった香頂は、明治七年一月一日、新年の表白文を書いて仏世尊に呈した。

 「仏子香頂頓首頓首し敬って我が仏世尊に白す。

  方今 耶蘇教日本に闖入す。有力者之を防ぐ能わず。之に加えて排仏の徒 一新を似て機と為し、我が仏法を斃さんと欲す也。香頂悲泣して自勝する能わず。昨年七月 火船に坐して上海に到る。九月北京に入る。支那の仏教を観るに委微にして振わず。香頂の憂、日、一日と増す。然れども香頂の赤心支那僧を感動さすれば、則ち奮発興起すること有りや。仏法天竺に興って支那日本に至る。方今印度先ず衰え 支那之に次ぐ。日本和尚取るべきものありや。香頂三国同盟の事を企てんと欲す。日本支那印度一心協力せば何事か成らざらん。香頂先ず支那僧に説く。支那僧聴いて奮発すれば、則ち同盟の緒開けん。唯仏世尊の加持力を願うのみ、香頂昨年八月北京に至る、日夜唯汲々として語学をする。いまだ同盟の事成らず」

 この表白文は香頂の渡支と、その目的、結果について最もよくあらわしているものである。

 自坊の大分の妙正寺には、その当時の政府高官が香頂にあてた書が多く残っている。中に副島種臣の絹布に書かれた「真宗万歳為香頂上人 弟子副島種臣」と記されたものがある。明治二十三年五月の日附である。香頂は生前、副島種臣とは親交があり「余を知る者は副島伯なり」と云っているくらいだ。先述の公運老子の禍根は、香頂が勝海舟からもらった阿弥陀仏の画像を紛失したことでもあるが、このように香頂は、多くの政府要人と交渉があった。

 征韓論は香頂が北京に渡った年の十月、朝義で西郷、板垣、後藤、副島、江藤 対 岩倉、大久保、大隈の論争で決定的になり、西郷は下野して鹿児島に帰った。

 しかし「征韓論」の根はこの朝義のずっと以前、明治維新の前からあった。

 たとえば先述の勝海舟は、日・朝連合で欧米に対抗して反幕勢力を海外にそらそうと謀っていた。あるいは、吉田松陰の「日は昇らされば則ちかたむき、月は満たされざれば則ちかく」(松陰・幽因録)というアジア共同防衛論ともいうべき戦略にもその萌芽はあった。勝海舟や副島種臣とも親しかった香頂は、彼らと相互に征韓論について影響しあっていたと思われる。征韓論は韓半島を日本が征服するといった単純な意味ではなく、西洋植民地主義に対しアジアが団結して対抗するには、韓半島を引き込まなければ駄目だという政策でもあった。

 後年、香頂の中国開教はともすれば東本願寺という組織の中で位置づけられがちである。たとえば彼が七年四月に本山から三等出仕を命じられ、「中国布教にあたらしめる」旨の通知を受けとっていることから、本願寺当局が中国開教に対してすでに明白な見解をもっていたということ。そういう組織的要求に香頂は乗っただけという評価である。

 しかし香頂という人物を知れば知るほど、それほどなまやさしい男ではなかったといえよう。なにしろ京都に住みたくないので本山の命令を無視したり、法嗣にゾウリと竹の杖で国じゅう歩きまわれとおどかす男だ。

 あるいは彼が日本のアジア侵略のお先棒をかついだという評価もある。たしかに後年、東本願寺の中国開教が日本軍部の中国侵略に利用させられたことも事実である。しかしこの香頂という人物はもっと喰えない。

 明治五年の話しだが、当時、教部省が開設されて以来、排仏の声はいくらかおさまっていたが、ややもすれば仏教を圧迫することはまだ多かった。香頂は神仏二教の争いは洋教に漁夫の利であるとしてこれを政府に訴えた。香頂は左院副議長をしていた伊地知某が教部省の御用掛けになっていたので、これに両教代表を呼ばせて、一致して洋教に当たること。国教を海外にまで進出させることが教部省設置の本意であるといわしている。つまり日本の仏教を海外に布教することが、教部省の任務だというわけである。

 これなど完全に彼が裏で糸を引いていたと思える。自分の本音をいうのに、政府を利用するほどの香頂だ。「余を知る者は副島伯」(彼は西郷派であった)というほどの香頂が日本国内を二分して、朝野を分つ大論争に参加しなかったというわけがない。ただ彼は中国大陸にまで出かけていって、征韓論の最も尖鋭な行動家になったということなのだ。

 香頂がはじめて中国の地を踏んで行おうとしたことは、征韓論の真宗版を大陸で目論んでいたことでなかったのか。彼の中国での著書、「北京護法論」十六巻は、そのために中国仏教界に呼びかけた、三国同盟結成のアジテーションでもあった。

 西郷は結局、九州で敗れたが、香頂がたてた戦略は翌年には東本願寺を動かし、政府の援助を約束させ、朝鮮、台湾へと続く東本願寺のアジア開教へと結びついていった。

 だれあろう小栗栖香頂この人は、西郷が破れたその夢の名目だけを、ひそかに中国大陸に移し、それに政府をさそいこむことでまんまと「一世の志願」を満足させた人物であった。

 五台山への登山を終え彼が北京へもどったのは明治七年六月二十日であった。七月七日、香頂の中国での無二の親友となった本然、雍和宮の活仏らとの別離をした香頂が再び大分の自坊にもどったのは明治七年九月十四日であった。

 彼の母、峯子との再会については記して、つまびらかではない。

 けだし人間の重さは、その人間が邂逅した時の重さでもあった。

 (附記)  この稿を成すに当たり大谷大学図書館、東本願宗務所渋谷徳應師、貴重な文献を貸与された大分市妙正寺小栗栖公運、大號師に対し深く謝意を表します。
 なお、本文中の故人に対する敬称は略させていただきました。 本稿を今回再録するにあたり、本稿掲載誌である「仏教雑誌あそか」が手元にみつからなかったため、成田山仏教図書館の蔵書のコピーをいただきました。あわせて御礼もうしあげます。

 (つづく)