− 森繁久弥と平塚大空襲と宝善院 −
2010年3月10日 住職 松下隆洪

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 名優・森繁久弥が平成21年11月、99歳で亡くなった。日本を代表する大俳優の死に、多くの追悼文がよせられた。中で異色だったのは 春名幹雄氏(名古屋大学・大学院教授)が「日刊ゲンダイ」によせた次の一文でなかったろうか。

 「森繁が米国大使館で行った秘密工作」という同氏の投稿によれば、「森繁さんは戦後の一時期、東京のアメリカ大使館「ラジオ部」で、他言を禁じられた仕事をしていたことがあった。(中略)「米国々家安全保障会議」(NSC)は、日本人をアメリカ好きにする心理作戦をアメリカ大使館「ラジオ部」でおこなった。これには森繁久弥をはじめ、三木鮎郎、宮城まりこ、横山道代、中村メイ子など当時のそうそうたる面々が参加し、秘密工作は大成功して1971年(昭和46年)まで続けられた」(日刊ゲンダイ2009年11月20日号)とある。これらの秘密工作の隠された目的と平塚大空襲との間には実は深い関係があった。

 敗戦まで一ヶ月を切った昭和20年7月16日の深夜から翌日にかけ平塚は、B29と呼ばれた米国空軍爆撃機138機の大編隊による爆撃をうけた。世にいう「平塚大空襲」である。隣接町の見晴らしの良い所に住んでいた住民は後で「そりゃーよく燃えていたよ、夜でも新聞が読めるほどよく燃えていた」と語っていた。その夜、平塚では市内10,419戸の80パーセントにあたる、8,000戸の家が焼失し、343人の人間が命を落とし、宝善院も全焼し跡形もなくなった。

B-29戦略爆撃機による爆弾投下

@ 空襲直後の宝善院(米空軍撮影)

 私は当時一歳半で、母親の背中におぶさって祖母と三人、猛火の中を親類がいる大磯に向かって逃げた。(住職は徴兵され戦地だった。)もちろん後に母から聞いた話だが、当院から約700メートル、大磯町との境を流れる花水川にかかる橋まで逃げるのがやっとで、その夜はまんじりともせず橋の下で過ごしたそうだ。橋は重要な爆撃目標なのだから、偶然、直撃弾が落ちずに私たちは一命をとりとめた。あるいはその後の米軍の上陸作戦上必要なので、この橋を爆撃しなかったのかもしれない。母が後日、語ったところによれば、就寝の時には、枕元に寺の過去帳を風呂敷に包んで置き、いつでも持って逃げられるようにしていたそうだ。母親が言うには自分らが直撃弾に遭うこともなく生き延びられたのは、本尊様と過去帳とご先祖のおかげだったと。まったくそうとしか思えない惨状だった。一歳半の私に、どんな記憶が残されたのか不明だが、私はなぜか今でもアメリカが好きになれない。恐らくは、ぐれんの炎の中をわが子を背中に必死で逃げ惑う母の記憶が、私の深層心理のどこかにあるのだろう。
A 平塚市戦没者慰霊塔

平和慰霊塔の記

 米軍の爆撃方法にはカーペット・アタックとスクリュー・アタックがあり平塚は後者の爆撃方法だった。これは目標爆弾を中心点に落とし、それを芯に時計回りに爆撃してゆくと火のカーテンが何重にもでき、中に挟まれた人間は酸欠と高温で死ぬはずだというものだ。明らかに一般市民を無差別に殺戮するメチャクチャな爆撃で、ジュネーブ協定(1899年・ハーグ陸戦条約で一般市民への無差別爆撃を禁止)違反だろう。ちなみに平塚空襲が「大空襲」と呼ばれるのは、落とされた爆弾の量が東京空襲より多かったためである。東京空襲が焼夷弾38万本だったのに対し、平塚は焼夷弾447,716本・総トン数1,173トンで単位面積当たりの爆撃量は八王子空襲とならんで日本一、二だそうだ。(Wikipedia)焼夷弾は市民一人当たり8.2本となる。それでも死人が少なかったのは、東京空襲の被害者が平塚に多く疎開しており、生き残るノウハウを住民に周知してくれていたからという。それと平塚は当時まだ農村地帯で多くの田畑が住宅に隣接していた。そのため東京ほど火災死者がでなかったのだろう。3月10日の東京空襲では十万人が殺されてる。

 空襲の翌朝、私たちを心配した大磯の親類が当院まで来て、丸焼けの当院に立って声を限りに母の名を呼んだのだが、返事もなく、全員焼死したんだろうとがっかりして大磯に帰ったという話を、これも物心ついてから聞いた。

 私はその後地元の富士見小学校に入学したのだが、五、六年生になると空襲跡地に出来た工場(横浜ゴム、日産車体、三共製薬等)へ、全国各地から労働者が集まり転校児童も増え教室が不足し、にわか作りの分校にかようようになった。戦後の大空襲の後で、市内に空いた建物などないから、昔の海軍火薬廠(工場)に残っていた寄宿舎に間借りすることになった。教室にはここから出征した若い兵士が書いたと思われる、壁に墨で「靖国神社で待ってるぞ」などとあったり、遊び時間に銃弾を拾うのはしょっちゅうのことだった。いまから思えば、焼け野原のバラックで生活する我々は、ちょうど今のバグダットの戦災孤児のような生活だった。

 平塚には当時から、あるいは今でも不思議な伝説があり、その伝説は市民の中で今も生きていると思われる。伝説とは、平塚が空襲されたのは、平塚に「海軍火薬廠(かいぐんかやくしょう)」があったからで、米軍は火薬廠を破壊するために平塚大空襲をしたのだという伝説である。私たちは子供のころから、この話を聞いており、今でもほとんどの平塚市民はそう信じていると思う。分校となった火薬廠に通った私たちはひときわそう思っていた。

B 平塚海軍火薬廠記念建造物 将校休憩館

 平塚の「海軍火薬廠」は明治38年イギリスのアームストロング社、ノーベル社、チルウオース社によって作られたわが国最初の火薬工場で、日露戦争の火薬はここで製造されたという。我が国の軍事史上に残る工場でもある。皮肉なことに、工場はお雇いイギリス人たちが設計監督して完成させた数十年後、その米英連合軍に爆撃破壊され、市民は塗炭の苦しみをおった。跡地は工場地に現在はなっている。

 アメリカの外交文書公開制度は日本の外務省を最近悩ましているらしい。「年数がたつと自動的に公開してしまうなんてひどいじゃないか」ということだろう。せっかく国民に知らさずに、うまくトボケて核持ち込み秘密協定やら、沖縄返還についてのややこしいことなどを「地下鉄漫才」のように「黙っていよーなー」とばかりに「ドガチャガ」したのにばれてしまった。ちなみに「ドガチャガ」というのは、落語でお店の番頭が帳面をごまかし、店の金を私的に流用する行為を説明するときの常套句だ。

 実は平塚大空襲に関する資料もワシントン国立公文書館で50年たって公開され、資料調査に行った人から驚くような話を聞かされた。平塚大空襲の目的に海軍火薬廠なんてどうでもよかったということらしい。終戦末期、材料がなくて火薬を作るどころか食糧生産にイモをつくっていると、グラマン偵察機が報告している。イモを作っている火薬工場なんてマンガだった。若い人に補足説明しておくと日本のゼロ戦に対抗するアメリカの戦闘機がグラマンで、当時はアメリカの戦闘機は日本人は何でもグラマンと呼んでいた。

 私より10歳くらい年上の男子が、子供のころの会話に戦争中、海岸や、学校の校庭でグラマンに追いかけられて機銃掃射をされたんだというのをよく自慢げにしゃべっていた。操縦席のあんちゃんが笑いながら飛び去ったなどと話しをしていた。(沢山の子供がこんなことでも死んでいる)つまりそれくらいグラマンは偵察のため内地に飛来していた。だから火薬工場がイモ工場だなんてバレバレだったわけだ。

 そこで今になって思い出すのは年寄りが、8月15日の終戦の朝、平塚海岸の沖合に勘定できないくらい、それこそ無数のアメリカ軍艦が集結していたと、しゃべっていたことだ。これらの事実はいったいどのようにお互い関係していたのか、それがアメリカの公開文書で判明した。

C 相模湾に集結する米艦隊

 平塚空襲の目的はワシントン公文書館公開文書によれば、@平塚は米軍の本土上陸作戦の上陸地点であったことA沖縄上陸作戦でのあまりの米兵死者の反省から、上陸作戦は上陸地点の一切の建物を消滅し、狙撃兵の遮蔽物を破壊消滅しておくことBそれでも生き残った日本人はサリンで全滅させるC作戦は平塚に上陸したあと、一直線に八王子に北進。(平塚大空襲と八王子の空襲はそれでリンクしている。八王子大空襲は昭和20年8月2日未明、B-29爆撃機170機により焼夷弾67万発投下、市街地の8割が消失、住民450名死亡)八王子から右折して中央線に沿って都内に侵入するというものだった。

D 海軍火薬廠記念碑

 平塚空襲の目的は海軍火薬廠の破壊ではなく、米軍上陸地点の構築が目的であった。それではなぜ平塚市民は戦後何十年も、今日までも、芋しか作っていなかった火薬工場の存在が爆撃理由だなんて思っていたのか、あるいは思わされていたのだろう。

 米軍の日本占領計画にWGIP計画というオペレーションがあった。 これは War Guilt Information Plan といい、直訳すれば「戦争の罪を日本人に教え込む教育」というものだった。計画はスタンフォード大学教授 アーネスト・ヒルガード(1904〜2001)とミルトン・エリクソン博士が指導した。知られていないが、二人は20世紀を代表する催眠と洗脳の専門家で、日本人に対しこの戦争のすべての悲劇(広島・長崎を含めて)の原因と罪が、日本人にあることを教育・洗脳するため壮大な「洗脳教育」を実施した。このことは慶応大学の江藤淳先生が生涯をとして研究調査された報告が「閉ざされた言語空間・占領軍の検閲と戦後日本」になって現在、文春文庫から購入できる。同書カバーに次のようにある。

 「先の大戦の終結後、日本はアメリカの軍隊によって占領された。そしてアメリカは、占領下日本での検閲を周到に準備し、実行した。それは日本の思想と文化とを殲滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破滅による新しいタブーの自己増殖である。」

 WGIP 計画では、平塚大空襲の責任は「海軍火薬廠などをつくった君たちにあるんだよ」ということを平塚市民に教え込み「サリン散布」関東・大上陸作戦などに平塚市民の目を向かわせないようにすることにあった。戦後六十年たっても、市民のほとんどが平塚大空襲は海軍火薬廠のせいだったと思い込んでいるのだから、計画は成功したと言えよう。冒頭の森繁久弥とアメリカ大使館ラジオ部はWGIPにつながるアメリカの壮大な占領計画の一環だった。朝から晩までアメリカ音楽が流れ、ほとんどの日本人がアメリカを大好きになった今、WGIP 計画は大成功したといえよう。


資料
@ 平塚大空襲直後の航空写真(ワシントン国立公文書館・所蔵 宝善院)
A 平塚大空襲戦没者をはじめ平塚市戦没者慰霊塔
B 平塚海軍火薬廠記念建造物 将校休憩館
C 相模湾に集結する米艦隊 (ワシントン国立公文書館・所蔵)
D 火薬廠記念碑文

E 本土上陸作戦とサリン散布計画

 ルーズベルト大統領は1945年4月病死し、後を継いだトルーマン大統領は日本本土上陸作戦「ダウン フヲール作戦」(Down Fall・仕掛け罠作戦)を承認した。この作戦は2段階作戦で計画され、まず南九州に兵力82万人を上陸させる「オリンピック作戦」についで、関東平野に100万人が上陸する「コロネット作戦」の2段階作戦で日本を無条件降伏させるというものだった。沖縄上陸作戦での日本側の必死の抵抗に恐怖を感じた米軍は徹底的な事前の空爆と艦砲射撃の後、生存者をサリンで殲滅した後、上陸する作戦を計画した。米海軍は使用される爆弾の2割を毒ガス弾にする予定で、6万発近い毒ガス弾を前線に輸送していた。予測される死者は九州作戦で100万人、関東上陸作戦ではその数倍の死者が予測された。平塚大空襲はサリン散布計画をともなう100万人関東上陸作戦・コロネット作戦の作戦開始そのものだったのだ。(週刊新潮2006.8.17.24 奥菜秀次「日本上陸で米軍はサリン攻撃を計画」より)

 敗戦の日、8月15日の朝、無数のアメリカ艦船を見たという地元民の話はまさに「コロネット作戦」に符合する。昭和19年、平塚生まれの住職が空爆でも死なず、サリンにも遭わずに今このようなレポートを書いておられるのは、ただの奇跡か、何かのいたずらだろう。

 終戦時、米軍関東上陸作戦が行われた場合、日本人の死者の予測について、作家の浅田次郎氏はその数を1千万人と推測している。(『日輪の遺産』浅田次郎)

F アメリカ大使館ラジオ部による「日本人をアメリカ好きにする」秘密工作の詳細については、次書に詳しい。春名幹男著『秘密のファイル CIAの対日工作 上』(新潮文庫・平成15年)同書によれば、アメリカ政府の情報機関が極秘裏に進めた対日心理作戦の目的は、独立を回復する日本に、反共の風土を根付かせ、親アメリカの世論を形成するのが狙いであった。(同書P531)

G 米国情報機関による日本人向けの謀略放送は、戦後のアメリカ大使館での「森繁工作」以前に、実はすでに戦争末期、昭和19年のサイパン島玉砕後から、サイパン島より行われていた。「サイパン島が米軍に占領されると、同島から本土空襲の米軍機のみならず、中波で「新国民放送局」の名のもとに、日本語ラジオ番組が124回にわたり送り出されていたことは、あまり知られていない。米国CIAの前身OSS(戦略情報局)が総力を結集し、日本の反政府勢力が国内から発信しているように偽装した。約三十分間、日本の早期降伏を呼びかけるメッセージや、日本で放送禁止中の厭戦的、享楽的なナツメロが流された。(『ブラック・プロプガンダ 謀略のラジオ』山本武利著(岩波書店)についての朝日新聞書評(2002年7月7日)より

H B29東京空襲 搭乗員の証言(1/5) (YouTube:5/5まであります)
I WGIP計画とは何だったのか?


- 筆者の感想 -
 この戦争では、当院関係者の中からも多くの戦死者を出し(巻頭目次・宝善院戦没者名簿参照)、とどのつまりが、終戦直前の空襲で全山焼失。戦後は焼失した宝善院の復興に先代住職は苦労の辛酸をなめました。なぜこのような無謀に遭遇し、多くの命が失われ、当院においては貴重な文化財を含め堂塔のすべてを失なわなければならなかったのか。日本人の素朴な疑問でしょう。特に平塚空襲ではそこにいた一人として長年疑問に思っていたことを今回まとめてみました。
 この大悲劇の遠因は、おそらく明治維新にまでさかのぼり、このときの権力交代の方法と、歴史を欺瞞して権力を簒奪した人間たちの素性にまでさかのぼる原因があったのではないか、というのが現時点での筆者の感想です。(参考・石光真人編著『ある明治人の記録』会津人 柴五郎の遺書・中公新書)