− 空海二度渡唐説(続) −
河内長野市 阿修羅窟主人 佐藤 任



(一)空海の謎の空白の七年

 昨年の『歓喜』誌に、「空海二度渡唐説」と言う小文を掲載した。その中で当時私的に渡唐することは、必ずしも不可能でも困難でもないことを示すために、渤海と日本との両国の頻繁な交流使節船の往来を指摘した。また日本僧の恵萼(えがく)が三度入唐したとも書いた。

 ところが、その同じ『歓喜』誌に森田英覚氏が「普陀山巡拝記」を載せ、その中で恵萼が五回渡唐したと書かれている。さらに鎌田茂雄氏は「慧萼伝考」を書き(「松ヶ岡文庫研究年報」1)、恵萼が何度も渡唐したことを述べている。それによると、恵萼は、空海が高野山で入定した八三五年(承和二)、遣唐使の渡朝を送った船が唐に帰るのに便乗して、楚州に到り、さらに山西省の五台山を巡り、八四一年(承和八)秋、しばらくの間天台山に滞在した。八四二年に禅僧義空を伴って日本に帰国し、同年か翌年または翌々年に再び入唐している。入唐経路は、朝鮮半島の西海岸を北上して山東半島の登州に上陸したと考えられている。八四七年(承和一四)九月、恵萼は留学僧円載の弟子仁好と共に記朝した。その時の船には唐人三十七人が同乗して日本に来たという。恵萼は八四〇年から二十年間にわたって数度の入唐をしている。



渤海国の範囲(黒色部分)

上田雄『渤海国の謎』講談社現代新書より
 八六二年(貞観四)七月、空海の弟子真如親王(高岳親王)は、恵萼ら僧俗合わせて六十人を率いて日本を出発し、九月七日に明州の揚扇山に到着し、八六四年(貞観六)四月、明州から日本に帰ったという説もある。ともかく恵萼は何度も渡唐したようである。これらのことは、入唐しようとすれば、遣唐使船だけでなく、渤海使の船や、また朝鮮半島西岸を経て山東半島に至る沿岸航路のチャーター船のようなものもあったと考えられる。平安時代、中国との往来は考えられているほど、困難なものではなかったと言えよう。

 八六二年(貞観四)七月、空海の弟子真如親王(高岳親王)は、恵萼ら僧俗合わせて六十人を率いて日本を出発し、九月七日に明州の揚扇山に到着し、八六四年(貞観六)四月、明州から日本に帰ったという説もある。ともかく恵萼は何度も渡唐したようである。これらのことは、入唐しようとすれば、遣唐使船だけでなく、渤海使の船やまた朝鮮半島西岸を経て山東半島に至る沿岸航路のチャーター船のようなものもあったと考えられる。平安時代、中国との往来は考えられているほど困難なものではなかったと言えよう。

 七二七年(神亀四)九月、初めて日本に来航した渤海使は、九一九年(延喜一九)まで頻繁に来航し、外交目的を揚げつつも、実態は交易にほかならなかった。これについては鈴木靖民氏「渤海の国家構造」(月間『しにか』一九九八年九月号、大修館書店の「特集・渤海国」)に詳述されている。
 したがって、空海が公式の遣唐使船で入唐(八〇四年・延暦二三)する前に、渡唐していたという仮説は、けっして荒唐無稽なでたらめの話とはいえないのである。むしろ「空海の謎の七年」を埋める積極的で想像的な仮説と言えよう。



渤海使到着地国別図

上田雄・孫栄健『日本渤海交渉史』六興出版より借用


(二)「精来目録」の謎

 この目録は、空海が唐から持ち帰った文献や品物を書いて朝廷に上表するためのものであった。冒頭には「新請来の経等の目録を上る表」とあり、表とは上申書である。しかし単なる羅列的な目録ではなく、空海はいろいろな説明を加えている。一見して自己宣伝臭の強い文章である。

 最初に、長安に到り西明寺に定住し、青龍寺の阿闍梨、法名恵果和尚にめぐり会い、この和尚を師と定めたと書いている。

 初めての入唐で、長安の青龍寺の恵果和尚に出会ってすぐに師と定めた、というのも疑問がないとはいえない。しかも和尚は大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子で、経典と戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理で、国の師とする人物だという。

 恵果和尚との出会いと師事、付法の経過について、次のように書かれている。

 西明寺の志明、談勝法師ら五人、六人と一緒に同行して恵果和尚の許に行く。和尚は空海を見ると、笑みを含んで喜んで言った。




五台山(1992年7月)
 「我、先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し。今日相見ること大いに好し、大いに好し。報命(寿命)も竭きなんと浴するに付法に人なし。必ず須く速やかに香花を弁じて灌頂壇に入るべし。」(原文訓みくだし)。

 延暦二十四年(八〇五)六月上旬、空海は灌頂のための支度の法具を準備し、灌頂壇に入って胎蔵界、七月上旬に金剛界、八月上旬に伝法阿闍梨位の灌頂を受けた。空海は、五百人の僧にお斎を設けて供養し、あまねく出家の比丘・比丘尼や在家の善き男子・善き女子に供養した。

 そこで恵果和尚は、空海に持ち帰らせるための胎蔵界や金剛界の大曼荼羅図や経典、道具を造らせて、空海に言う。

 「この両部の大曼荼羅と、百余部の金剛乗の法と、不空三蔵から転じて付嘱された物と、供養の法具などを本国に持ち帰って、教えを国中にひろめて欲しい。汝が来たのをみて、寿命の足らないことを恐れていた。しかし今、ここに法を授けることが出来た。写経や造像の作業を修了したので、早く本国に帰って、この教えを国家に奉呈し、天下にひろめて、人々の幸せを増すようにしなさい。そうすれば、国中平和で、万人の生きる喜びも深くなるでしょう。」




五台山 清涼寺、紅衛兵に破壊された。1992年7月筆者撮影
 恵果和尚はこの年の十二月十五日入滅した。翌八〇六年(大同一)一月、恵果和尚の碑を建て、八月明州に行き、十月帰国、筑紫大宰府に滞在した。十月二十二日、「請来目録」を書いて上進した。

 直感的で想像的な私の推理を言えば、錬金術書『大日経』を知った空海は、山々を駆けめぐり、鉱山を探り訪ねて、やがて中国に渡り、長安で恵果に学び、一度帰国した。そして公式の遣唐使船に乗って、国の留学僧として長安に入り、恵果に師事して密教を伝授され、公人として密教を日本へ伝来したということである。目的を定めた、きわめて計画的な渡唐であり、正式の渡唐のときに、恵果から密教の伝授を受けるという予定が、最初の入唐の折に既に立てられていたと仮定しても、おかしくないように考えられる。