この目録は、空海が唐から持ち帰った文献や品物を書いて朝廷に上表するためのものであった。冒頭には「新請来の経等の目録を上る表」とあり、表とは上申書である。しかし単なる羅列的な目録ではなく、空海はいろいろな説明を加えている。一見して自己宣伝臭の強い文章である。
最初に、長安に到り西明寺に定住し、青龍寺の阿闍梨、法名恵果和尚にめぐり会い、この和尚を師と定めたと書いている。
初めての入唐で、長安の青龍寺の恵果和尚に出会ってすぐに師と定めた、というのも疑問がないとはいえない。しかも和尚は大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子で、経典と戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理で、国の師とする人物だという。
恵果和尚との出会いと師事、付法の経過について、次のように書かれている。
西明寺の志明、談勝法師ら五人、六人と一緒に同行して恵果和尚の許に行く。和尚は空海を見ると、笑みを含んで喜んで言った。
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五台山(1992年7月) |
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「我、先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し。今日相見ること大いに好し、大いに好し。報命(寿命)も竭きなんと浴するに付法に人なし。必ず須く速やかに香花を弁じて灌頂壇に入るべし。」(原文訓みくだし)。
延暦二十四年(八〇五)六月上旬、空海は灌頂のための支度の法具を準備し、灌頂壇に入って胎蔵界、七月上旬に金剛界、八月上旬に伝法阿闍梨位の灌頂を受けた。空海は、五百人の僧にお斎を設けて供養し、あまねく出家の比丘・比丘尼や在家の善き男子・善き女子に供養した。
そこで恵果和尚は、空海に持ち帰らせるための胎蔵界や金剛界の大曼荼羅図や経典、道具を造らせて、空海に言う。
「この両部の大曼荼羅と、百余部の金剛乗の法と、不空三蔵から転じて付嘱された物と、供養の法具などを本国に持ち帰って、教えを国中にひろめて欲しい。汝が来たのをみて、寿命の足らないことを恐れていた。しかし今、ここに法を授けることが出来た。写経や造像の作業を修了したので、早く本国に帰って、この教えを国家に奉呈し、天下にひろめて、人々の幸せを増すようにしなさい。そうすれば、国中平和で、万人の生きる喜びも深くなるでしょう。」
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五台山 清涼寺、紅衛兵に破壊された。1992年7月筆者撮影 |
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恵果和尚はこの年の十二月十五日入滅した。翌八〇六年(大同一)一月、恵果和尚の碑を建て、八月明州に行き、十月帰国、筑紫大宰府に滞在した。十月二十二日、「請来目録」を書いて上進した。
直感的で想像的な私の推理を言えば、錬金術書『大日経』を知った空海は、山々を駆けめぐり、鉱山を探り訪ねて、やがて中国に渡り、長安で恵果に学び、一度帰国した。そして公式の遣唐使船に乗って、国の留学僧として長安に入り、恵果に師事して密教を伝授され、公人として密教を日本へ伝来したということである。目的を定めた、きわめて計画的な渡唐であり、正式の渡唐のときに、恵果から密教の伝授を受けるという予定が、最初の入唐の折に既に立てられていたと仮定しても、おかしくないように考えられる。 |