第三回「環勃海考古国際学術討論会」論文
『蘭陵王入陣曲』の疑問に対する解釈 (本文の原題による)
中国 馬忠理

(二)『蘭陵王』の舞姿と答舞
 日本の『舞楽要録』などには、陵王舞の次は納蘇利(双龍舞)を踊ると記録されている。任氏は「正舞に答舞で答えることは、日本風であり、唐風ではありえない。しかも答舞の『頗る龍の蜿蜒たる動く姿』というものは、正舞の冠飾及び胸繍と共に(唐風ではないことの)真実の証拠となっている…。もし、蘭陵王という踊りの本質及び意義について、是と非の詳しい説明がなければ、正しい答は得られないと思う。」と強調している。(23)

 (1)唐の碑文と正舞・答舞について
 正舞と答舞の風習が唐風か和風かという問題について、筆者は古文献及び唐の碑文をもとに、唐代からすでに存在した風習であると認定する。
 『旧唐書』に次のようにある。
 「古今の楽府には正曲を奏した後、皆送声あり、君は唱え、臣は答えることは、前史にあきらかなり。すぐ侍臣よりたてまつった和の雪の詩をとり、もって送声となす」(24)という記載がある。ただし、これは正曲と送声とを記録したものである。
 最初に「蘭陵王を弄する」ことを記録した、わが国の唐の碑文と文献にも、このことがうかがえる。唐の鄭萬均が作った「代長公主碑」の碑文には、公主が幼い時(天授元年-690年)に、武則天太后のお祝いの宴会に出席して、踊ったことを追述して、次のように述べている。
 「初め、則天太后は明堂におられ、宴る。聖上は六歳、楚王は五歳、『長命女』を踊る。□□は年12才、皇孫となし、『安公子』を作る。岐王は年五歳、衛王となし、『蘭陵王』を弄して、兼ねて主の詞を行い。日く、『衛王が入場して、神聖神皇の万歳、および子孫の成行をまじない願う』と。公主は年四歳、寿昌公主と『西涼』を対して踊る」。(25)
 この中の楚王は、すなわち後の唐玄宗李隆基であり、岐王とは彼の弟李隆範である。かれの二番目の妹李華は当時わずかに四歳であり、後に「代長公主」となり、17歳の時、鄭萬均と結婚して、男二人、女四人を生んだ。開元22年に亡くなり、鄭氏は彼女のために石碑をたてて、碑文を作った。その碑文の記載と任氏の文章から、次の四点を確認できるのである。
 イ)碑文に記載されていた「長命女を踊る」と「安公子を作る」、また「蘭陵王を弄する」と「西涼を対して踊る」という舞踊は、疑いなく二組の正舞と答舞の実例である。
 ロ)日本の陵王舞に、答舞として双龍舞がある。代長公主碑の碑文に言及した「西涼舞」は獅子舞である。蘇軾には「しばらく仮面を被り、西涼を弄する」という詩句があり、白居易は「西涼伎、西涼伎、仮面の胡人は獅子を弄する。刻木して頭とし、絹を尾とす。目に金を塗り、歯に銀を張る」という詩がある。(26)
 新彊アスタナ(阿斯塔那)の第366号墓から、発掘された武則天時代の「戯弄俑五剣」の図版六の3と4、また図版七の4は「仮面の胡人が獅子を弄する」の姿を描く実物である。(27)
 任氏は、
「羅陵王という曲は日本の天平時代すでにあり、かつ獅子舞に使われている。これはその曲自身の状況、及び日本獅子舞の仕組を表すことにすぎない。それとわが蘭陵王(曲)との何等かの関係を説明するものではない。また、あるいは双龍に彷彿して、或いは獅子に合致することを通して、その踊りの内容が混乱して、主旨が不明なることも認めざるをえない。そのようなことは、決してわが国の蘭陵王の舞に存在するものではないために、両者が似たりすることは、まことに語りにくい」(28)と述べている。
 はたしてそうであろうか、任氏が指摘したように「わが国の蘭陵王の舞と関係ない」ものではなく、また日本古代芸術家の不注意によるものでもないと筆者は思う。「踊りの内容が混乱して、主旨が不明」になってるとも思えない。むしろ、任氏が指摘されたことは、日本の古代芸術家が唐の初期に学んだ蘭陵王という舞踊が、日本獅子舞と密接な関係をもってる事を証明する格好な材料でないかと筆者は考える。また、それを通して、碑文の蘭陵王と西涼(獅子舞)は、日本の「陵王舞」と双龍舞との(対応)関係をもうかがわせることができるのである。
 王国維先生は、その『唐宋大曲考』のなかで、「趙宋の大曲は、唐の曲からなるものである。しかし、唐の曲は実に伊・涼州の諸曲を初めとするものであり、皆周辺地域から伝来するものである」と指摘している。宋大曲には「降黄龍舞」と「南呂薄媚舞」があり、その曲は今日になって、わからなくなったが、その詞はまだ残っている。

例句:
1. 降黄龍舞の句(伏以玳席接歓杯、東…願吐研詞)
席に伏して喜びの杯を受け、東…願わくは研辞を吐くこと。
答、 (流席上発水調、於歌唇…少相清歓)
席から水調を発することを望み、唇に歌…清歓少なし。
遣、 (情随杯酒滴郎心、不忍…相将好去)
情が杯の酒に映された心に、忍ばず…相よくしていこうと。
2. 南呂薄媚舞の句 (羽觴棋布洽主礼、於良辰…本事願聞)
羽觴をならべ、主礼にあまねく。良辰に…願わくは誠のことを聞くことなり。
答 (踏塵之陌傾一見、於…得塵高会)
塵の通りを踏破して一見につくす。…得塵高会となり。(29)

 以上の点からも、任氏の「正舞の外、また答舞があることは和風であり、唐風にありえない」という断言は、唐の碑文・文献とも相異していることを指摘するべきである。
 ハ)唐の岐王李隆範はその時五才の童子であったが、その祖母−皇太后武則天のための祝宴で、蘭陵王を踊っていた、この頃、日本の元慶六年三月二十七日(883年。唐喜宗の中和三年)、八歳の数貞親王は皇太后の四十歳誕生日の祝宴で『陵王』を踊っていた。(30)これらは偶然ではなく、両者に内在的な関係があると思う。その理由の一つは、両者とも子供であり、親王であること。理由の二つめは、両者とも自分の祖母のための祝宴で、蘭陵王を踊っていることである。両国の二つの祝宴の内在的な関係を説明しているのは、まさに同じ舞楽−「蘭陵王入陣曲」であることに注目すべきである。
ニ)関龍飾について、任氏は、次のように述べている。 「日本陵王の舞いの服装は、冠飾と胸繍はみな龍で、特殊の象徴を示すことは確かである。しかし、形式と内容から見ても、龍とわが蘭陵王舞踊はまったく関わりのないものである。」(31)
 しかし『唐宋大曲考』では、剣舞についてこのように述べている。「楽部は曲を唱え、剣器を舞い、曲の一段を終え、龍蛇の蜿蜒曼舞の勢いを作り出す」(32)。剣舞にまだ龍蛇の動く姿があるのに、剣術を指揮する蘭陵王舞に、龍の姿が現われるのは当然のことではないだろうか。
 関龍飾については、高粛墓の碑文に新しい史料が提供されている。現存の武平六年の蘭陵王高粛墓前の神道石碑(33)は、1417年前に建てられたものである。その碑の陽圭額に篆体で「斎故假黄太師太尉公蘭陵忠武王碑」(写真の5)という四行十六字が書かれている。碑陽 の正文文首は「王は粛を謐とし、字は長恭とす。勃海条の人。高祖神武皇帝の孫、文襄皇帝の第三子なり。神、すなわち龍首、元となり」。(写真の6・7)
 ここにいう「神、すなわち龍首」とは、蘭陵王の面具と服飾に「みな龍で特殊の象徴を示す」ことの文献上の資料として認められるであろう。
 奈良で出版された『舞楽』にある「陵王両(34)という龍の紋は、文献の「繍両」に属するものであり、また磁県の北斎墓から発掘された彩色の両土偶は当時の実物の写しと見ても差し支えないであろう。なぜなら、龍紋の面具と服飾などは、すべて碑文と土偶及び古文献にその源を探しだすことができるからである。また、常任侠先生はその著書の中で「インド舞踊の面具に龍が付いており、海上から東漸の跡があるらしい」(35)という文章で、すでに「らしい」の推測を明示しておられるのである。

 (2)唐代の「蘭陵王」はすでに軟舞に属していたことについて
  この舞踊は北斉の河清三年の芒山の役に作り出されたものである。
『旧唐書・音楽誌』と『通典』には、皆「この舞踊はその指麾剣術の姿をもって倣う」と記録されている。確かにこの舞踊は「入陣の象、猛威たる殺伐の姿」を表しているはずである。けれども、早くも唐の開元十一年(723年)に(36)、健舞に属するはずの蘭陵王舞は、その勇武雄健を表す内容にもかかわらず、かえって軟舞に編入され、「春鶯(37)・「二垂手」・「鳥夜啼」および「廻波楽」などと同じ部類に帰属にされている。
 これについて、任半塘先生は彼の『教坊記箋訂』で、「蘭陵王の如きは、軟舞に帰属するべきではない。故に、存して考証を待つ」(38)と質疑している。
 これらの点からいえることは、林邑僧の仏哲、あるいは奈良の遣唐使、彼らが唐で習って日本に持ち帰ったのは軟舞としての蘭陵王であり、これがすなわち日本の雅楽団によって継承されたものであることは自明の理であろう。われわれはこのような理由から、奈良の「蘭陵王入陣曲」に、唐代軟舞としての蘭陵王以上の力強さや、より猛威たる殺伐の姿を求めるべきではないのも、ごく当然のことであろうと思われる。
 北朝から唐に至り、封建経済の変化と発展に従って、音楽舞踊を含む当時の文化も大融合、大発展の段階に達しており、新しい音楽と外来音楽舞踊が次々と現われ、古い音楽舞踊もかわるがわる変化していった。『隋書・音楽誌』によれば、「隋には『西国亀』と『斉朝亀』及び『土亀』、およそ三部があり」と(39)。北斉の幾代の皇帝は亀音楽が好きなので、国民も影響され、しだいに西国とは異なった特徴がある「斉朝亀」が形成されていった。「踏揺娘という舞踊も斉の人々の中で流行り、唐代となって、その踊る姿と人物はみな変化し、典故もその旧旨を失い、あるいは談容娘と呼ばれていた」(40)、という。故に、千年前に日本に伝わった蘭陵王舞に変化が生じることも理解しえることであると思う。
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