− 宝善院の歴史 −




約八百二十年前の建久三年、鎌倉八幡宮寺(今の鎌倉八幡宮:明治維新までは関東地方屈指の真言系巨大寺院であった)に下向した京都・東寺の学問僧によって開山されました。



源実朝公の妻の念持仏と伝えられる、京都より請來の不動明王です。
ご本尊のご真言は ノーマクサンマンダー サラダ―センダンマーカロシャーダー ソワタヤウン タラターカンマン



 当院の本山は五重之塔で有名な京都の東寺です。東寺は今から1200年前、弘法大師が唐から帰国して、初めて真言宗を開宗した寺で、真言宗の歴史的な「総本山」です。明治初年まで東寺には長者(ちょうじゃ)と呼ばれる方がおられ、全国の真言宗寺院を管理していました。明治時代になって政府の方針により、現在の真言宗各本山が分離独立するまで、次のような本山とその末寺が東寺を中心に、真言宗を形作っていました。

和歌山県の 高野山

奈良では 東大寺(大仏)。唐招提寺(鑑真和尚)・薬師寺・長谷寺
京都では 東寺・智積院・醍醐寺・仁和寺・大覚寺・清水寺(きよみずでら)

関東では 高尾山・護国寺・川崎大師・成田山など

 現在ではこれらの本山は全て独立してそれぞれの宗派を名乗っていますが、もともとは真言系の寺でした。



 当院がある場所は現在でも、高い所では周辺道路から2メートル近くも有ります。江戸時代の地図を見ると、宝善院のある所が小山のように描かれています。当院に伝わる伝説などから、この土地は昔の古墳ではなかったかと考えられます。それには此の地方に次のような伝説があります。
 今からおよそ千三百年前の奈良時代、朝鮮半島を支配した高句麗は、唐によって滅ぼされました。この時、王族の一人高麗若光王(こまじゃっこうおう)は一族を引き連れ、大磯海岸に上陸しました。そして、大磯には高麗神社(こまじんじゃ)を、平塚には「黒部の宮」を造りました。「黒部」とは古代織物技術者集団の「呉部(くれべ)」がなまったものです。三重県の伊勢神宮近くにも「黒部」という地名がありますが、ここの氏神もやはり「呉部神社」です。
 当院はこの「平塚黒部の宮」と、その後身である「平塚・春日神社」の、管理職である、「別当」を明治時代まで勤めてきました。

 鎌倉時代、幕府は、ご家人/武士のために学問所を建設するため、京都・東寺から多くの学問僧を鎌倉に呼びました。当時、関西との交通は陸路より海岸沿いに港を経由しながら東行し、伊豆半島を回って相模湾に入り、国府津もしくは大磯に上陸、此れより陸路を関東平野に入りました。宝善院は鎌倉幕府により招請された、これら京都東寺の学問僧たちにより、鎌倉への中継基地、並びに関西方面との沿岸交易の基地として作られました。寺の名前の「福生山 宝善院」つまり「ふくがうまれるてら よきたからさずかるてら」とは、宝善院が中世から近世にいたる、関西方面との沿岸交易の相模湾における一つの拠点であったことを示しています.事実、宝善院がかつて差配した平塚市黒部の「黒部の宮」からは、多くの中国の古銭が出土したことがあります。宝善院は鎌倉時代の建久年間、かつてこの地を支配した高句麗王族の古墳の上に千三百年後の今も高麗山を望むよう、設計・創建された寺です。
 現在の大磯「T&T」あたりは、鎌倉時代には入り江でした.此の辺りは関西地方からの船が関東平野に入る重要な拠点でした。西からきた人々も花水川河口のここで船を降りて関東平野に入ったのです。ちょうど現在の「木ばし」が有るあたりが渡河点だったのでしょう。それから宝善院の近くを通って東へ向かったのです。

 当院は、平塚の氏神さまをお守りする寺として、また東海道平塚宿本陣の菩提寺として鎌倉時代から江戸時代をとおして、平塚では最高の権力を持つ寺でした。平塚海岸にいたる約二万坪の境内地は鎌倉、北条、徳川三代の幕府によって安堵されてきました。戦国時代末期、小田原北条氏は秀吉に攻められ落城するのですが、このとき最後の城主、北条氏直は守り本尊の虚空蔵菩薩を落城寸前の城内から家来によって、ゆかりの宝善院に収めました。
 江戸時代になって、徳川家康により宝善院は東海道五十三次平塚本陣の菩提寺として権勢を誇りました。戦前までこの地方最大のお祭りは、宝善院境内の「午頭天皇の宮」のお祭りで、宝善院は創建以来、この地方の有力者の寺として、今日まで栄えてきました。



  富森叡児氏の『うろんなり助右衛門 ある赤穂浪士とその末裔』によると、大石蔵之助は浅野内匠頭(たくみのかみ)切腹後、 一往復半、東海道を上下し、三度、当院前を通過している。
 江戸時代のその頃、当院は東海道五十三次平塚宿本陣の菩提寺で、 本陣の真正面に位置し、東海道から山門越しに本堂を眺められたので、旅の道すがら、大石も当山の方角を見るようなことはあったろうと思うのである。
 初めて大石が平塚宿を通ったのは、浅野内匠頭が切腹した年の元禄14年11月の江戸訪問の時の往復。翌年、吉良邸討ち入りのため江戸に入府した、元禄15年10月で、 その月の26日、大石は川崎平間村の同志・富森助右衛門宅に入っているので、前日の10月25日、当宿を通過したと思える。
 大望を果たし、江戸で切腹した蔵之助には、 帰路はなかったのでつごう、一往復半、東海道を上下し、当院前を三度通過したことになる。
 なぜそのことと宝善院が関係あるのかということなのだが、元禄15年は西暦1702年となり、その241年後、播州赤穂の大石蔵之助の生家近くで 出生した人間が、当山の住職に赴任したということに不思議な感動を覚えるのである。
 吉良邸討ち入りのため、必死の情念を持った大石蔵之助が、当山の前を歩いた241年後、蔵之助の生家のそばで生まれた男が、住職として 当山に赴任し、大石が歩いた方角を眺めた。当院の先代住職・松下俊弘和尚は、播州赤穂の生まれで、そのことを生涯誇りにされておられた。
 人間の情念も電気信号の一種だというのなら、その信号の軌跡は空中に残らないのだろうか。大石蔵之助は、身長はそれほど高くなかったということだから、 情念の電気信号の軌跡は、地上五尺五寸ほどの所を江戸に向かって、赤いパルスとなって残っているはずだ。あれから300年、その軌跡は今も江戸に向かって走っているはずだ。 (参考写真 先代住職 播州赤穂請来の弘法大師 蔵之助が歩いたしばらく後の平塚宿