任氏が取り上げた10個の日本の舞踊の例についてみると、我が国の古文献・唐音楽誌に、少なくとも9個は記載されている。さらに、『日本史』の礼楽の中に、何時、誰が唐から習ったのかなどの記載もある。
例えば、『団乱旋』について、唐の『楽府雑録』と任氏の『教坊記箋訂』の「制度と人事」第36頁では、
「開元の際…また『涼州』…『団欒旋』…『蘭陵王』、『春鴬』…『鳥夜啼』等の舞踊があり、それを『軟舞』と称した。『胡飲酒』について、『教坊記』の中に、『酔胡子曲』がある。日本の帝国大学塩谷先生は「『胡飲酒』(「蘇朗中故事」、「踏揺娘」とも言う)は『蘭陵王』と『抜頭』と共に、唐時代に日本に伝わったが、後、唐玄宗によって上演を禁止された」と論じている。
『皇帝破陣楽』については、『旧唐書』音楽誌と『楽府雑録』には、唐太宗李世民によって創られたと記載されており、『大日本史』礼楽14では、「文武帝(紀元697年-707年)の時期に、遣唐使である栗田真人によって伝えられた」と記されている。
『打毯楽』については、『教坊記』、『文献通考』の記載によると、「『打毯楽』の舞者の服装は四つの色から成り、刺繍した短い上着を着て、銀色のバンドを結んで、軽い靴に「花束」をつけて、手には杖を執っていた」という。
『還城楽』については、唐書によると、玄宗は「韋後」の乱を平定し、夜半に宮中に戻れたので、『夜半楽』、『還京楽』即ち『還城楽』を創作した。また『日本史』によると、『還城楽』は「大食調」であり、『抜頭舞』の答舞である。これについて、宋時代の『碧鶏漫誌』では、「蘭陵王の辞は二つある。一つは越調であり、もう一つは大石調である(即ち『日本史』の「大食調」のことを言う)」。『抜頭』と『還城楽』について、『旧唐書』及び『楽府雑録』にも記載があり、北斉から隋、唐時代の中期までかなり流行したという。
『裏頭楽』は、「平調」で、唐の李徳裕が創作し、『散手破陣楽』とも言い、遣唐使の貞敏上清たちが日本に伝えたという。
『傾杯楽』については、『通典』146の注解によると、唐太宗が『勝蛮奴』、『火風』、『傾杯楽』の三曲を創作したと言い、『隋書』、『新唐書』、『楽府雑録』及び『唐宋大曲考』の第27頁にも、『傾杯楽』についての記載がみえる。
以上で任氏が取り上げた『両』に関わる10個の例のうち、9個の「由来」について論じてみたが、その源が「唐楽」であることは確かであろう。したがって、舞者が北斉、唐時代の『両』服装を着たと言っても過言ではないと思う。日本の『両』服の異なる装飾については、日本への流入(伝播)の過程においての変化であると言えよう。 |