第三回「環勃海考古国際学術討論会」論文
『蘭陵王入陣曲』の疑問に対する解釈 (本文の原題による)
中国 馬忠理

(一)「蘭陵王」舞者の『両服』について
 付芸子先生は彼の『舞楽・蘭陵王考』などの論文において、中国の『蘭曲』は「幸いにもいまだに日本の舞楽中に保存されており」、「千何百年たった現在でも、唐時代の風格は変わっていない」と論じた。しかしこれについて、任氏は『唐戯弄』の一文を以て、付芸子先生に一々反論しているところである。
 例えば、「"両"は我が国の六朝時代の服装であるが、唐時代に至って初めてそれが官服として採用された…という観点について、任氏は「史料と論証とはうまく結びついており、因果関係も十分自然ではあるけれども、史料はみな月並みなものばかりで説得力に欠ける。また論証において主観性が強すぎる点も問題である」と述べ、「論理的には同意できる。しかし、彼の理解は十分でない」とし、さらにつづけて、
「『両』及び『辺縁風毛』は日本の舞服にあたりまえによく見られるものであり、『羅陵王』の舞のみに専用されてるわけではない。例を上げるなら、『団乱旋』、『胡飲酒』、『皇帝破陣楽』、『散手破陣楽』、『還城楽』、『裏頭楽』、『傾杯楽』、『打毯楽』、『萬才楽』及び『羅陵王』等の舞踊においても、同じく見られる。我が国の『通典』146で、唐時代の舞楽を論じるにあたり、服装についても言及している。それによると、『慶善楽』『光聖楽』などにおいて、『両』と『風毛』を掛けた様子は見られない。したがって、『両』が六朝時代の常服であり、唐時代に入って官服となったという説は、日本、唐、羅、蘭間の舞踊すべてに共通するものとは言えないであろう。さらに唐の『両』は軍服として用いるには無理があり、蘭陵王が戦場で敵陣に攻め込み、勇敢に戦っている際、『両』を着ていたとは考えられない。このような相互的な本質問題について付氏は言及していない…『両』が北西の胡服であるということについて、根拠があるかどうかは知らないが、もしそれが本当ならば、日本の舞楽衣装の中に北西の胡服を着た例が多くなければならぬはずである。」Jと主張している。

 (1)中国古文献の記載
 任氏が取り上げた10個の日本の舞踊の例についてみると、我が国の古文献・唐音楽誌に、少なくとも9個は記載されている。さらに、『日本史』の礼楽の中に、何時、誰が唐から習ったのかなどの記載もある。
 例えば、『団乱旋』について、唐の『楽府雑録』と任氏の『教坊記箋訂』の「制度と人事」第36頁では、 「開元の際…また『涼州』…『団欒旋』…『蘭陵王』、『春鴬』…『鳥夜啼』等の舞踊があり、それを『軟舞』と称した。『胡飲酒』について、『教坊記』の中に、『酔胡子曲』がある。日本の帝国大学塩谷先生は「『胡飲酒』(「蘇朗中故事」、「踏揺娘」とも言う)は『蘭陵王』と『抜頭』と共に、唐時代に日本に伝わったが、後、唐玄宗によって上演を禁止された」と論じている。
 『皇帝破陣楽』については、『旧唐書』音楽誌と『楽府雑録』には、唐太宗李世民によって創られたと記載されており、『大日本史』礼楽14では、「文武帝(紀元697年-707年)の時期に、遣唐使である栗田真人によって伝えられた」と記されている。
 『打毯楽』については、『教坊記』、『文献通考』の記載によると、「『打毯楽』の舞者の服装は四つの色から成り、刺繍した短い上着を着て、銀色のバンドを結んで、軽い靴に「花束」をつけて、手には杖を執っていた」という。
 『還城楽』については、唐書によると、玄宗は「韋後」の乱を平定し、夜半に宮中に戻れたので、『夜半楽』、『還京楽』即ち『還城楽』を創作した。また『日本史』によると、『還城楽』は「大食調」であり、『抜頭舞』の答舞である。これについて、宋時代の『碧鶏漫誌』では、「蘭陵王の辞は二つある。一つは越調であり、もう一つは大石調である(即ち『日本史』の「大食調」のことを言う)」。『抜頭』と『還城楽』について、『旧唐書』及び『楽府雑録』にも記載があり、北斉から隋、唐時代の中期までかなり流行したという。
 『裏頭楽』は、「平調」で、唐の李徳裕が創作し、『散手破陣楽』とも言い、遣唐使の貞敏上清たちが日本に伝えたという。 『傾杯楽』については、『通典』146の注解によると、唐太宗が『勝蛮奴』、『火風』、『傾杯楽』の三曲を創作したと言い、『隋書』、『新唐書』、『楽府雑録』及び『唐宋大曲考』の第27頁にも、『傾杯楽』についての記載がみえる。
 以上で任氏が取り上げた『両』に関わる10個の例のうち、9個の「由来」について論じてみたが、その源が「唐楽」であることは確かであろう。したがって、舞者が北斉、唐時代の『両』服装を着たと言っても過言ではないと思う。日本の『両』服の異なる装飾については、日本への流入(伝播)の過程においての変化であると言えよう。

 (2)考古発掘による『両服』の史料について
 "田野考古調査"と科学的な発掘調査の進展により、(特に、蘭陵王高粛家族墓に対する発掘)大量の彩色土偶(土人形)と壁画が掘り出されている。その中に様々な『両』を着た軍人像の土偶があった。
 軍人像について、北魏時代の(正光五年、即ち紀元525年)墓から、鎖帷子を着用した『両』軍人像土偶が発掘されたことにより、東魏、北斎の時代に、『両』軍人服はすでに流行していたと考えられる。
 例えば、蘭陵王高粛の伯母である茹茹公主墓(東魏武定八年即ち紀元550年)から、三種類の『両』服の軍人像土偶が発掘された。即ち、矢束を背負って鎖帷子を着用した両服の軍人像土偶(写真の1)と、矢束を背負った彩色皮の『両』軍人像土偶(写真の2)と、が合計203個。そして、小さな帽子を被って文吏に見える彩色の『両』服の土偶が2個(写真の3)も発見されたが、いずれも、赤いシャツを着、その上にベルトを結んでいて、合計205個となるK
 高粛の14番目の叔父である文昭三高澗墓Lからは、『両』服の軍人像土偶35個が出土し、その中に矢束を背負ったのが12個、文吏と思われるのが23個あったが、小さな帽子と、広い袖に長い上着を着て、ベルトも結んでいた。
 磁県湾村北朝墓M、即ち高粛2番目の叔父である高洋の墓地からは45個が発掘されたが、地位が高い文吏と考えられる土偶2個は、赤い襟あわせ、広い袖に長い上着で、ベルトを結んでおり、小さな帽子も被っていた。そして、矢を背負った土偶は15個で、髪は縛られていた。文吏の土偶も28個があった。(筆者は茹茹公主の墓誌と北斉高氏陵墓に対する考古調査及び分析によって、この墓地は蘭陵王高粛の2番目叔父文宣帝高洋の武寧陵であると思う。N
 それから、高粛の叔父のの墓から4個O、二番目の伯母の父李希宗の墓から5個の土偶Pが発掘された。河北省、河南省QR(写真の4)、山東省、山西省など地方でも、同時期の『両』土偶がたくさ発掘されている。
 以上のような発掘調査によって発見された土偶の『両』服は、蘭陵王時期の北斉の官服、及び軍服の一つであろうと思うが、蘭陵王が率いた武士の中にも『両』の軍服を着た者がいたはずではないかと考えられる。したがって、いままで述べられたような、『両』服を巡っての学界での論争は、これで解決されるべきではないかと筆者は考える。
 さらに日本の『蘭曲』において、舞者が『両』服を着ることについて、「唐時代の遺風であり、原形を遡及するのに役に立つ」という推論も合理的であろうと思う。
 常任侠と付芸子先生が言われる、蘭陵王の「舞服は『両』で、北西の胡服である」という説について、筆者はあまり賛成できない。蘭陵王が率いた部隊は鮮卑、匈奴、柔然、勅勒などの諸民族によって合流された「胡人」部隊でありS、中には六鎮に転居し、すでに「鮮卑化」した漢人も含まれていた。候景は蘭陵王の父である高澄を「鮮卑の小児」と呼び、高洋は「太子(高殷)は漢人の性格を持ち、自分とは似ていないので、太子を廃したい」とさえ言ったそうである。確かに、東魏、北斉時代の墓から発掘された土偶のなかには、沢山の「胡人の像」が見られる。その服装は、ほとんど袖が細く、襟が大きく開かれた服を着ており、あるいは、丸襟の軍服を着用している。それは、漢人の『甲』とは違い「胡服」に属する。当時、「胡服」は北西と北部を含め、現在の山西、山東、河南等の地域に広く広まっており、東魏及び北斉、特に蘭陵王が居住していた北斉では、北魏や東魏よりもっと流行していたと考えられるのである。

 (3)北斉と隋時代の「外来舞楽」について
 北斉時代には、亀、疎勅、西涼などの「胡楽」がかなり流行し、東魏の大丞相である高澄(蘭陵王高粛の父)と北斉開国の皇帝文宣帝高洋(高粛の二番目の叔父)は「胡楽」をたいへん好んだ。
 高緯は「胡楽を好み…自ら曲を弾き、疲れも忘れて歌い…周りの胡人の侍者たちも思わず曲に従って歌った」という(21)。隋代が始まる頃には、七曲が定められていたが、そのうちの、四曲が「胡曲」と「外来曲」であった。それに加えて疎勅、扶南、百済、新羅、倭国などの国の曲も含まれていた。以後、九曲が定められたが、中でも「胡楽」として、亀、疎勅、西涼、康国、安国の曲が五曲を占め、それに、高麗、天竺の曲を加えて七曲となったという。(22)
 日本の『古事類苑』には、86曲の中国から伝わったという舞曲が記載されている。このうち全曲と見られるのが19曲あり、20曲は断片である。他の39曲は失われたという。常任侠先生はそのうちの38曲と『孔子操琴』、『王昭君』、『竹林楽』等の32曲を考証したことがあるが、何れも「曲は伝わったが、辞は伝わらなかった」という。
 以上述べたように、北斉、隋、唐時代及び日本の奈良時代において、相互の「外来文化」の流入と発展の過程は、そのままアジア地域に於ける、当時の多民族の大交流と、大融合の歴史的事実を証言している。多民族間にはたえず、文化の相互影響と融合過程が存在したことを証明している。したがって、付芸子先生が指摘した日本の『蘭曲』は「中国の唐楽である』という事と、任半塘先生が強調した『両』は中、日両国の古代芸術の「本質と意義」を反映する大きな節であるということは、以上の考古発掘史料と文献資料によっても、論証されるはずなのである。
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