東寺真言宗福生山宝善院お申し込み
福生山 宝善院
電話 0463-32-0387 受付 9:00–17:00
神奈川県平塚市平塚1-23-16

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名所案内

境内の見どころ

当院は、江戸時代に入って最も隆盛を迎えました。徳川家康公は、江戸城入府直後の慶長六年、東海道五十三次の宿駅制度を制定されます。このとき平塚宿の目印として、三河以来の譜代の家来である加藤・成瀬の両家を本陣家として置き、あわせて宝善院を本陣菩提寺と定められました。以来、江戸時代三百年を通じて、当院は平塚宿の中心的な寺院でした。

境内には、その頃からの石仏や墓所、戦国の供養塔、海を越えて届いた品々、そして石垣に隠された仕掛けまで、さまざまなものが残っています。お参りの折に、どうぞ探してみてください。

十二か所

歴史とゆかり

東海道の宿場町として栄えた平塚の記憶が、境内のあちこちに残っています。

須賀神社

須賀神社

別名を牛頭天皇社といいます。祭神の牛頭(ごず)天皇は、中央アジア・シルクロードの神です。江戸時代の書き上げ帳によれば、この地方にはやり病が流行した時、当院の檀家が西国より勧請(かんじょう)して当院境内におまつりしました。戦前まで、平塚一の祭りと御輿といえばこの神社をさしました。例祭日は毎年七月二十六日で、地元の有志の方々により行われます。

祇園精舎の守護神として知られる牛頭天皇は、疫病除けの神として、京都・東山の八坂神社をはじめ全国で信仰されています。この信仰は、もと中国・新疆ウイグル自治区の和田(ホータン)にある牛頭の形をした山が、熱病に効く薬草「栴檀(せんだん)」を産出したところから、疫病にご利益のある山として崇められたことに始まり、その後インドの密教などと結びついてわが国に伝えられました。わが国では、疫病や農作物の害虫、邪気をはらう信仰と調和して、薬師如来や素盞鳴命(すさのうのみこと)と同体と信じられるようになりました。

平塚宿石仏群

平塚宿石仏群

当院は江戸時代、この宿場の中心地でした。境内には当時の遺産が今も多く残っています。これらの石仏群は、当時の宿場の人々の信仰を表しています。

青面金剛と呼ばれた石仏で、またの名を庚申(こうしん)さんともいいました。当時の人々は六十日ごとにめぐってくる「庚申」の夜、この神様が天上に人間の悪口を言いに行くので、そうはさせじと夜通し起きて見張りをする、というたてまえで、村の親睦や休暇を楽しんだそうです。

斎藤麗山句碑

斎藤麗山句碑

斎藤麗山(さいとうれいざん)は当院檀家・斎藤家の出身で、江戸末期に優れた文人書家として平塚宿で活躍しました。この碑は後年、麗山の弟子たちが師匠の遺徳をしのび、墓地のある当院境内に建立したものです。

碑には「すそはまだ くらきにあけて ゆきのみね」と刻まれています。通説では、斎藤家の目前の東海道から大磯宿を見ると高麗山(こまやま)が街道正面に見えることから、この山の冬の夜明け前の景色を詠んだ歌とされています。

興味深いのは、吉田松陰も学んだという伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門にも同じような歌があることです。そちらは富士山を詠んだもので、「里がくらい」とは人民の文明開化の度合いを指し、夜明け前(明治維新前)の日本を暗に指していると解釈されています。斎藤麗山も、夜明け前の日本を黙考していたのでしょうか。

武田信玄小田原城攻めの戦死者供養塔

武田信玄小田原城攻めの戦死者供養塔

戦国時代、当院は小田原北条氏の信仰する寺院で、北条家臣団が当院を支えていました。永禄十二年(1569年)、武田信玄が小田原城を攻めたとき、この地方も戦場となりました。

この塔は宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)塔と呼ばれ、塔の下に宝篋印陀羅尼経を埋めて塔を建てることから、この名が生まれました(丸い生垣の後ろの石柱)。戦死者の霊魂はこの塔に風とともに運ばれ、塔に当たることで供養されるという信仰から、古来、戦場の跡地にはよく建てられました。

宮本武蔵ゆかりの瓦

宮本武蔵ゆかりの瓦

京都『一乗寺下がり松』での吉岡一門との決闘に勝利はしましたが、京に逃れる所も無くなった武蔵は東寺・観智院に身を隠しました。今も武蔵直筆の国宝・襖絵が残っています。この瓦は観智院本堂に用いられていた桃山時代の瓦です。この瓦の下に、確かに武蔵は、一年半生活していました。

平塚宿本陣墓所

平塚宿本陣墓所

慶長六年(1601年)、家康公は東海道五十三次の宿駅制度を設けました。平塚宿本陣の加藤家・成瀬家は三河以来の家臣でしたが、平塚に残ってこの地の本陣となり、平塚の行政をおさえ、当院を本陣菩提所としました。本陣加藤家歴代当主の墓地です。

秀吉と「姥ガ石」の故事

秀吉と「姥ガ石」の故事

当院石垣の南側に、石臼を2か所積み重ねたところがあります。これは次のようないわれから作られました。

天下の名城・姫路城には、石垣築城についておもしろい話があります。秀吉が信長の命により姫路城の石垣を築いていたとき、西の隅櫓(すみやぐら)の石垣が何度築いても壊れました。それを見ていた老婆が、この石臼をあそこにはめるとよい、と知恵を教えてくれました。秀吉がそのとおりにしたところ、不思議と石垣は崩れなかったということで、今も姫路城にはその石臼が残っているそうです。

隠し絵と隠し文字の板碑

隠し絵と隠し文字の板碑

南側石垣の東側部分に、不思議な板碑が埋め込まれています。これは昭和五十九年、弘法大師の1150年御遠忌を行ったときの記念建造物です。

板碑というのは室町時代から江戸時代を通じて関東地方に作られた仏教石造物で、北関東に多く見られます。当院のモデルとなったものは、埼玉県北葛飾郡庄和町に残るもの(二十三世住職・俊弘の妻の生地)です。この絵の中には隠し文字と隠し絵が書き込まれていますので、探してみてください。

平塚大空襲直後の宝善院周辺

平塚大空襲直後の宝善院周辺

昭和二十年七月十六日深夜からの平塚大空襲の直後、米軍が撮影した航空写真です。赤い丸のあたりが宝善院になります。

江戸末期の宝善院

江戸末期の宝善院

天保年間(およそ百八十年前)の平塚宿は、戸数408戸(大磯1026戸、小田原1530戸)、人口2114人(男1106人、女1008人)、旅館50軒、東西南北およそ1.5キロメートルでした。宝善院は、その街道の中心に当たります。赤い丸の位置が宝善院です。

徳川幕府製作「東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」より。原本所蔵は東京逓信博物館。

鎌倉街道と宝善院

鎌倉街道と宝善院

宝善院境内の南に隣接する、石垣下の道路。ここをかつては「輿道(こしみち)」と呼んでいました(写真の石垣左下、正面の高麗山へ向かう道路)。大正時代くらいまで、西相模の中心的な祭事である国府祭(こうのまち)の神輿は、東海道を通らずここを通過していました。ここがかつて鎌倉街道であったからです。

慶長六年(1601年)、徳川家康公が東海道五十三次の宿駅制度を導入され、平塚は藤沢と大磯の間の宿駅となりました。このとき、手狭となった輿道・鎌倉街道から数百メートル北へ、新たに街道が移されました。それが当院北の旧東海道です。

隆洪の子供の頃の思い出では、当時の輿道は今よりもずっと南にあり、現在の道路敷きは墓地と土手でした。道の南は田んぼで、道と田んぼの間には小川が流れ、いまの四十瀬公園は池になっていて、夏には小魚を捕ったものだそうです。戦後の区画整理事業で道路が拡張され、墓地が道路にとられたのです。

現在、宝善院の本堂は北を向いていますが、元来、寺院建造物は南向きに建立されるべきものです。鎌倉時代の創建当時、当院は南の鎌倉街道に面して建てられていました。ところが江戸時代になって街道が後ろに来てしまい、いたしかたなく北向きになったという次第です。

輿道、旧東海道、国道一号バイパスと、平塚本宿を東西に通る街道は、時代とともに北上しました。鎌倉街道が当院の南あたりを通っていた理由は、このあたりから見る高麗山がいちばん美しいからだと思います。北へ行くほど、山の形が崩れるのです。

日本最初の鉄道レール

たたいてみれば、文明開化の音がする。これは正真正銘、日本最初の鉄道レールです。

明治五年十月十四日、新橋・横浜間でわが国最初の鉄道が開業しました。これはそのときのレールで、イギリス・ダーリントンのアイアン社が1873年に製造したものです。この線路の上を、間違いなく日本最初の蒸気機関車が走りました。

昭和四十三年、赤坂離宮(東宮御所)の改修工事中に、壁の中から発見されました。明治四十二年の離宮新築工事にあたり、補強材として使われたようです。

九か所

祈りとご供養

手を合わせる場所と、そこに込められた願い。

ぼた餅地蔵様

ぼた餅地蔵様

現代人が考えると、お地蔵様の名前の由来は、「ぼた餅」をお供えするからだろうと簡単に考えます。でも本当は「ぼた餅」をお供えできないから「ぼた餅地蔵」と、お名前がついたのです。

かつて砂糖は本当に貴重で、戦後の貧しい時代、甘いお菓子は憧れの時代がありました。ダイエット一番の今では考えられないことです。 まして江戸時代以前のわが国では砂糖は薬屋さんが扱う貴重品でした。ですからお砂糖いっぱいの「ぼた餅」はそれこそ、「棚からぼた餅」でもおきないと食べられないものだったのです。

娘たちは十七、八でこの村に嫁にきます。貧しさゆえに赤子を失った娘たちは、おいそれと歩いてでは実家の村までも帰れません。電話もない時代、慰めてくれる母もいません。

そんなときお地蔵様は、子供を亡くした若い娘にいつもやさしく微笑んでくれました。甘い甘い、おいしい、おいしい、ぼた餅を子供にも、お地蔵様にも食べてほしいけど無理でした。 そこで申し訳ないけど、お名前だけ「ぼた餅」地蔵と呼びました。

お地蔵様も、にっこり微笑んでくれました。

ふたたび大師の銅像

ふたたび大師の銅像

今を去る千数百年の昔のことです。弘法大師は遣唐使船で唐の都・長安に渡られました。あまりに昔のことですから、長安に渡られる以前のお大師様がいずこにおられたのか、誰も知る者がありません。突然降ってわいたように、遣唐使船という日本国の公式派遣船の記録にお名前が浮かんでこられます。

このためお大師様の入唐以前のご業績については多くの議論があり、いわばこの期間は弘法大師伝の空白期・謎の期間とされています。

二十四世住職・隆洪はある夜、霊告により、この謎の期間、すでにお大師様は密かに中国に渡られ修行を重ねられていた、というお告げを受けました。そこで『弘法大師二度渡航説』を発表し、霊夢にもとづき、中国密教の聖地「五台山」の頂上からわが国を望見する大師像を製作しました。

千数百年の昔、万里の波頭を越え、二度にわたり中国大陸に渡られたお大師様の霊跡をたたえ、これを「ふたたび大師」と名づけました。なにごとによらず、「ふたたび」を祈願するに、ふしぎな霊験があります。

『弘法大師二度渡航説』は、昭和五十二年、隆洪が三十三歳の時に『六大新報』誌上へ発表した論文です。

四国八十八ヶ所地下霊場

四国八十八ヶ所地下霊場

当院長年の計画・工事であった「四国八十八ヶ所地下霊場」が完成しました(昭和五十八年着工、工期26年)。本堂の地下入り口から墓地南通路の下を通り、歴代住職墓地に至る地下通路が、そのまま霊場となっています。

ここには四国八十八ヶ所霊場の本物のお砂が、透明な珠に真空パックされて八十八置かれており、触ってお参りすることで四国を一周できるようになっています。このお砂は四国八十八ヶ所霊場寺院のご協力をいただき、すべて一ヶ寺ずつ本堂真下のお砂を頂戴してきたものです。

平成二十年五月二十一日より、毎月二十一日を通常参拝日としております。

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歴代住職墓地

歴代住職墓地

当院歴代住職の墓地です。地下には畳20畳ほどの遺骨安置室があります。安置室は地下トンネルで本堂とつながっており、その途中が四国八十八ヶ所の地下霊場になっています。

動物供養塚

動物供養塚

当院の檀家、もしくは当院にご縁のある方のための、動物専用の墓地です。火葬された焼骨のみお引き受けしております。ご希望の方は、どうぞお電話またはお問い合わせよりご相談ください。

動物供養のご相談 ›
萬霊塔

萬霊塔

当院永代供養講の会員のための墓地です。雨の日も風の日も、お参りの方がいない日はありません。当院の墓地の中で、いちばんお参りの多い墓地です。お彼岸やお盆には、お花で山ができます。

だれもお参りしてくれない豪華なお墓より、いつも誰かがお参りしてくれるお墓を。

四国八十八ヶ所本尊銘板

四国八十八ヶ所本尊銘板

当院の南側には、およそ150メートルの石垣が積まれています。石垣の中には四国八十八ヶ所霊場のご本尊が刻まれた銘板が八十八枚はめ込まれており、お四国霊場の参拝ができます。

六地蔵さま

六地蔵さま

墓地入り口の自動扉を入った、桜の木の下におまつりしています。

九か所

門と建物

八百年の寺を形づくってきた、木と瓦の仕事。

なまこ塀

なまこ塀

なまこ塀は、江戸文化が残したもっとも美しい日本的デザインのひとつです。当院のなまこ塀は、重要文化財・大阪城の御金蔵(ごきんぞう)をモデルに作られたもので、江戸文化そのままのデザインを残す貴重な文化遺産です。

山門

山門

彫刻期間およそ3年を要した、総彫刻の木彫り山門です。これらの彫刻群は、関東彫刻の頂点の作品といわれています。このような伝統技術は日々失われつつあり、当院の伝統彫刻群は貴重な文化遺産となるでしょう。

本堂 唐向拝と彫刻群

本堂 唐向拝と彫刻群

本堂正面の唐向拝(からこうはい)と呼ばれる様式で、仏教寺院では最も丁寧な正面のかたちです。

彫刻は長年にわたって彫り続けられ、当院の堂塔を飾っています。横4メートル、縦1メートル、厚み1メートルの欅(けやき)から彫り出した玄武神欄間などは、その代表です(本堂正面・唐向拝に安置)。

錦松先生製作鬼瓦の塀

錦松先生製作鬼瓦の塀

光野錦松先生は、四国・松山郊外の菊間町で、400年にわたり寺社専門の鬼瓦を焼いてこられた一門の長です。錦松鬼瓦は関西の有名寺社のシンボル的存在で、関西の国宝級の寺社のほとんどの鬼瓦は、錦松工房で400年にわたって作られてきました。

その錦松先生の鬼瓦が宝善院にあるのは、不思議なくらいのことです。当院檀家役員の「植忠」社長と住職が四国を往復し、拝み倒して作っていただいたものです。

壁の中央には沖縄のシーサーがはめ込まれています。シーサーの口の中に何かを発見できたら、良いことがあります。

みごとな光悦垣

みごとな光悦垣

表庭の垣根は、「光悦垣」とよばれ、デザインは桃山時代の芸術家・本阿弥光悦です。

涅槃門

涅槃門

墓地入り口は「涅槃門(ねはんもん)」といい(題字は砂原秀遍・東寺長者)、車椅子のために自動扉となっています。

扉は大正時代の玄関障子で、材料は南天の木です。およそ建具材料には不向きな南天を用いたのは、南天箸があるように健康祈願樹だからでしょう。いずれにしてもこの細工は、当時の建具職人の最高傑作といえます。

天女の彫刻と天井絵画

天女の彫刻と天井絵画

本堂正面、唐向拝の中央にある天女の彫刻。その下に立って見上げると、ちょうど天女と目が合うように彫られています。

天井の絵画は、ルビー・サファイア・メノウなどの宝石をすり潰し、にかわで溶いた岩絵具で描かれています。銀色はプラチナ絵具です。

鬼門除けの小僧

鬼門除けの小僧

鬼門除けの小僧が、小玄関の屋根の上で東北の方角に手を伸ばしています。どこにあるか、見つけてください。四国の名工・馬越先生の作品です。

火燈窓

火燈窓

火燈窓は鎌倉時代に中国から入ってきた寺院建築様式に付随した窓の形です。当院の火燈窓は京都・銀閣寺様式です。

十か所

石垣と、水と、庭

石を積み、水を導き、季節を植える。境内のいとなみ。

安芸の宮島の石垣「ちぎり」留め

安芸の宮島の石垣「ちぎり」留め

宮島の太鼓橋はたいへん有名で、この橋の橋脚は石垣で作られています。激流から石垣を守るため、橋脚石垣の所々に「ちぎり」と呼ばれる、溶かした金属で石と石を結束する工事が施されています。石垣築造についての知恵の結晶です。

当院では「ちぎり」に、溶かした金属のかわりにチベット伝来の「五鈷(ごこ)」と呼ばれる密教法具を用いています。古くチベットから当院に伝わったもので、アクリル樹脂に封じて使用しました。

お経の聞こえる石垣

お経の聞こえる石垣

当院の西側から南にかけての石垣には、いろいろな工夫があります。これもそのひとつで、西側石垣のある部分の石の中から、24時間、般若心経が聞こえます。登下校中の子供たちが楽しみに聞いています。交通安全を祈願しています。どこだか、見つけてください。

二〇一〇年三月十日、「ナニコレ珍百景」(テレビ朝日)で放送されました。

石垣と生け垣の美

石垣と生け垣の美

当院の裏側は、高いところで約2メートルの石垣に囲まれています。その上は「カナメモチ」の生け垣です。

石は人類が最初に用いた建築材料で、人類史上もっとも美しい最初の建造物は、すべて石によって作られています。わが国では石による大きな建造物は作られませんでしたが、石垣は全国至るところに作られました。わが国でもっとも美しい石垣が残されているのは、実は沖縄です。国内に残る多くの石垣も、沖縄方面から伝わった南方海洋文化の遺跡なのです。石垣の施工技術をあたかも日本の築城技術に始まるかのように言うのは正しくありません。宝善院の石垣は、沖縄の石垣から多くのことを学んでいます。

平成十八年春、墓地まわりの竹垣が傷んできましたので、デザインを一新して全面を新装しました。

石垣の水対策「樋門」

石垣の水対策「樋門」

大きな石垣を作るとき、裏側に溜まる水をどうやって逃がすかは大きな工事上の問題でした。石垣裏側の「やっかい水」は、しばしば石垣全体を破壊してしまいます。「樋門(ひもん)」は城壁など巨大な石垣を作るとき、その中央下部に必ず設けられました。裏側のやっかい水はここを通って外に出ます。

高麗山(コマ山)と富士山の遠景

高麗山(コマ山)と富士山の遠景

墓地の正面に高麗山(コマ山)が望み、天気がよければ右側に富士山も覗きます。

メダカの池

メダカの池

表玄関に「メダカの池」があります。この小さな池からトンボが巣立っていくこともあります。

宝善院の桜

宝善院の桜

宝善院の桜は、枝ぶりも花の数も、このあたりで一番のものです。毎年、参拝のみなさまの楽しみになっています。墓地入り口の自動扉を入ると、見事な桜が目に映ります。

表庭とツツジ

表庭とツツジ

雨にぬれた表庭と、満開のツツジ。

天水尊

天水尊

当院では、東京都墨田区立「雨水博物館」のご指導をいただき、墨田区指定の雨水タンクを置いてあります。境内の防災や庭木の散水などに利用します。

坪庭と吉野川上流の奇石

坪庭と吉野川上流の奇石

客殿の坪庭には、四国・吉野川の上流から運ばれた奇石を据えています。

二か所

世界とのご縁

ネパールから、スリランカから。海を越えて届いたもの。

スマンガラ僧正の思い出

スマンガラ僧正の思い出

ネパール仏教の復興者にして、ネパール仏教協会の創立者、当院住職の長年の友人であったスマンガラ・マハテラ僧正は、1999年3月7日、カトマンズのブッダビハーラで逝去されました。享年68。

同師を記念し、この文殊菩薩像を安置しています。ネパールでもっとも著名な仏師シッヂパジュ・スンダルが、スマンガラ僧正の指導により制作したものです。

ネパール手作り釈尊生涯伝記ドア

ネパール手作り釈尊生涯伝記ドア

お釈迦様はインド人でしょうか、それともネパール人でしょうか。正確には、ネパールでお生まれになりインドで修行・布教されたといえるでしょう。お生まれになったと伝えられるルンビニー村も、お育ちになったカピラバスツー城も、現在はネパール国内にあるからです。

西側石垣の中央、四国八十八ヶ所地下霊場のドアは、ネパールで製作された総彫刻の木製ドアです。ここには釈尊の四大物語が彫られています。

一、誕生 ― 今から2500年前、ネパール領ルンビニーの森でお釈迦様はお生まれになりました。お母さんのマヤ夫人と、お釈迦様の誕生のお姿。

二、出家(29歳)― 人間が逃れることのできない四つの苦しみ(生老病死)を、どうしたら解決できるのか。静かに眠る妻子を残して、お釈迦様は出家されました。窓からは満月に映えるヒマラヤが見えます。

三、悟り(35歳)― 苦しい修行ののち、お釈迦様はお悟りを開かれました。

四、涅槃(80歳)― 八十有余年の人類救済のご生涯を、クシナガラの沙羅の木の根本で、眠るがごとく終えられました。悲嘆にくれる弟子たち。

旧ウェブサイトの「宝善院内名所案内」をもとに再構成しました。写真は当時のものです。 ご案内をご希望の方は、お問い合わせよりお申しつけください。

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