− 弘法大師『二度渡航説』 −
宝善院住職 松下隆洪


■ 空白の十年はなぜ生まれたのか ■

 弘法大師が遣唐使船で入唐する前の約十年間(「三教指帰」の執筆から、入唐まで)の足跡について、弘法大師伝には不明な点が多い。

 戦前、戦後から、今日までに出版された『弘法大師伝』のいずれをとっても、この期間のことについては、推測の域をでていない。代表的な弘法大師伝の何冊かをひろげてみると、たとえば高神覚昇師(昭和十年版)は「この十年間の空海の生活に就いては、何ら書きしるすべき材料もないが、恐らくこの時代は入唐の準備時代」とし、渡辺照宏・宮坂宥勝両師(昭和四二年版)は「ようとして消息を絶ってしまう。(中略)何の文献記録も残されていない」とされている。

 話題にのぼった司馬遼太郎氏の『空海の風景』では、「空白の長い歳月がある」ということ、その空白期間については、各地での修業をあてている。ようするに全<不明だ。 私は最近、弘法大師のこの「空白の十年間」について、実に不思議な体験をした。

 一夜、弘法大師・空海が霊夢に出られ、親しくその間の足跡について、くわしくおたずねする機会を持った。これからのべることは、その時のお大師様のお言葉をもとに、おおかたの読者にも分るよう、筋立したものである。

 西洋には「コロンブスの卵」というたとえ話がある。つまりわかってしまえば実に簡単なことで、なーんだそういうことだったのかという、たぐいの話である。大師は、実はその空白の十年間、日本に居られなかった、中国に滞在しておられたということであった。日本に居られなかったのだから、当然記録にも文書にも残っているはずがないわけだ。

 弘法大師の足跡の中で、入唐する前の約十年が、いわば謎ともいわれているのは、その間を説明する文書がないということだが、いちばん疑問なのは大師御自身が、この十年について口を閉ざしておられることではないだろうか。この十年を謎とする大方の責任は、弘法大師御自身が説明されなかったからに他ならないのである。

 布石としてまずいくつかの疑問点をあげてみよう。

 第一の疑問は、「空白の十年間」を考える時、その時間を大師がどう使用したかという推理以前に、逆になぜ空白の時間が生まれたかということのほうが、もっと重要でないのか。この点については、今までの大師伝はほとんど触れていない。

 この場合、なんとなくうけいれられそうな理由としては、それが非常に古い時代のことであったから記録が残らなかったということだろう。しかし、弘法大師に限っていえば、千年以上の時間の経過が、空白の十年を産んだとするにはあてはまらないような気がする。大師という方は、人物でいえば、一種のメモ魔である。性霊集などに残る文書記録をみても、周到に用意されたファイリング・ケースを常時かたわらに置いてなければ、それこそ千年も昔に、とても自己の生涯的記録を文書で残すことなど、至難のわざである。コピー・システムの整った現代においても、それがどのくらい困難な事であるかは、多少文筆行為に従事している者なら、だれでも体験することである。したがって文書が散逸してしまったなどという理由はあてはまらないだろう。むしろこの「空白の十年」は、弘法大師が意図的に作りだされたとみるべきではないのか。