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− 弘法大師『二度渡航説』 −
宝善院住職 松下隆洪 |
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■ 海上漂流した人間の限界 ■
三つ目の疑問は、大師の日本への出現とそれに対する反応である、
今でもだれかが“超有名人”になれば、その人物と若い頃を過ごしたことのある人間は、それを何かの形で書き残すものである。
入唐以前の無名の青年から、帰国後の最澄とごす程の超有名人への変身は、わずか二年の留学の後に起きている。
帰国後の大師の「立身出世」を目の当たりにして、どうして数年前かそれ以前、奈良かどこかの寺で机を並べた人物は、何も書き残すことがなかったのだろうか。それが無いというのは、むしろその事実を素直に受取ればよいではないか。つまり大帥の出現はあまりにも忽然としたものではなかったのか。さらに疑問なのは、大師の中国語の能力である。大師一行を乗せた第一船は、暴風のために予定地の揚子江沿岸を遠くはなれ、福建省に漂着した。ところが福州の観察使は一行の上陸を許可せず、「船を封じ、人を追って湿沙上に居らしむる」というぐあいであった。そこで大師が「大使の為に福州観察使に与ふる書」を呈するところとなった。性霊集にはその時の文章が載せられている。それをみると大師等一行は約二カ月のあいだ海上を漂流したとある。このあたりの日数は多少ふ<らましてあるようだ、正確には約一カ月くらいのものであろう。
ところで近代人が約一カ月、大師と同じように海上を漂流するとどういうことになるだろう。
江戸時代の文化十年、尾張の「督乗丸」という米穀運搬用の船が、実に十七カ月漂流した記録がある。それを読むと、漂流四日めにはすでに十三人の乗組員全員が、あまりの不安に全員自殺を決意しているのを船長がようやくおもいとどまらせている。さらに数カ月後には、病気や精神異常をおこし十三人中実に十人の人間がバタバタと死んでいっている。フランス人医師、アラン・ボンバールの『実験漂流記』によると、漂流者の生命を奪うのは海ではなくて、「不安と恐怖だ」とある。ポンバールは、海上遭難者の救援方法を研究するため、長さ五米の船で大西洋を横断した医師である。遭難実験のために飲料水を携行せず、海が与える魚とプランクトンと海水を飲み、実に百十三日間の漂流実験をした。その実験航海記録は今日でも、海事遭難者の救援方法についてのバイブルとなっている。日本人が海上を漂流した後に無事帰国した例は昔からいくつもあり、最近でもそのようなニュースは伝られている。それらの体験に共通してるのは、一カ月以上の漂流の場合、乗組員はほとんど心身虚脱状態になってしまうことだ。
今までの大師伝のいずれもが、一カ月間という海上漂流後の乗組員全員の健康状態を検討している書物はない。しかし一カ月間の海上漂流というのは、十分に人間の精神状態に異常をきたす程のものであるといわねばなるまい。性霊集がいうように、それが二カ月であったなら、なにをかいわんやである。
大師が遣唐大使・藤原葛野麻呂に代って、福州観察使に書を呈したというのも、このような事情を考える必要があるだろう。
従来いわれている説は、大使がいくら説明しても中国側の納得をえられないので、大師が前記の文章を呈出することになったという。実際はそうではなく、大使の藤原葛野麻呂は、とてもそのような交渉ができる心身状態になかったとみるべきだ。そのあたりの従来の大師伝の筆者の想像力はいかにも杜撰で、まるで田舎の陳情団体が、新幹線あたりで上京し、着いたらすぐさま交渉にとりかかったようなことを書いている。しかし各種の漂流記をみても、一力月以上も海上を漂流した人間に、とてもそんな芸当ができるはずがないし、とてもそんな精神状態でおられないのが人間なのである。それらの事は前述のボンバールの医学報告書や、各種の漂流記を見てもはっきりしている点である。
大使の藤原葛野麻呂にしても一国を代表する人物だ、自分の置かれた立場を説明するくらいの能力は十分もちあわせていただろう、そのへんは大帥伝筆者のひいきのひきたおしといった感もある。
大師が結局交渉係にすえられたのを、従来は大師の語学力、文章能力に大使がたよったからと説明しているが、実際はその時点で心身ともに健康だったのは出発直前、いきなり乗船した無名の青年僧だけだったということであろう。他の人間は心身虚脱状態で、ほとんど失神状態だったと見るべきだ。
そこで疑問に思うのは、なぜ大師のみ一人心身ともに健康な状態でいられたかということである。仮に大師がすでに渡航経験者であったらどうだろう。それも三度め(はじめての大陸往復からかぞえると三度め)の航海だとしたら、はじめて大海に翻弄される大使などとは全く別の反応をしめしたに違いない。 |
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