− 弘法大師『二度渡航説』 −
宝善院住職 松下隆洪


■ 大師入唐・最大の疑念とは ■

 大師が、なぜこの間の事情にについて説明しなかったかという点は、最後にのべることとして、次に従来の大師伝にみる疑問点からみてみよう。弘法大師の足跡の中で最大の疑念は実は、大師御入唐の目的である。従来からいいふるされてきたように、大師の入唐が奈良・久米寺で発見した『大日経』の経典本文について、疑問を正すためであったとするなら、逆になぜ大師はその疑問の解決を、十年間もがまんできたのだろうかという、逆の疑問が生じてくるのである。従来の大師伝に於て、最も疑問に思うのが実は、この点なのである。

 司馬遼太郎氏はこの点について次のように云っている。

 (空海の入唐目的は)「大日経についての疑問点を明かにしたいというだけのものであり、遣唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明な目的をもって海を渡ろうとした人物はいない」としている。大作家のひどく「鋭利で鮮明」な言葉の用い方にしては、その発想は貧困ではないか。『大日経』という対象を固定された「知識欲」が、その疑問点の解明という「鋭利で鮮明な目的」の解決を、十年もがまんできるものでない事は明白ではないのか。いうほど「鋭利で鮮明」な目的を大師がお持ちになっておられたのなら、どうして二十代の青春が十年近くもその「知的欲望」をがまんすることができたのであろう。この疑問を従来の大師伝はだれも解決していない。『大日経』という、まずもって文字によって書かれたものの意味が、山野を跋渉することで解明できるなどと、どうして考えられるのか、理解に苦しむ。文字で書かれたものが不明の時には、それを書いた人物を訪ね、問いただすのがいちばんよい。これは千年前も同じでないか。大師がそうされたであろうと考えるのはごく普通でなかろうか。大方の歴史は、判明している事実をポツリ・ポツリとつなぎあわせ、うしろむきに捕足説明する。

 空海というまだ無名の一学問僧にとって、「遣唐使船」というごく「国家的渡航方法」で入唐することがどのくらい困難なであったかという、その「難易度」についてはあまり説明されてこなかった。しかしその「難易度」は、選抜が単に能力主義によって選択されるわけでなかったのだから、無名の庶民がそれに合格することなど、ほとんど天文学的な困難さであったとみるべきだろう。たとえてみれば、ケープ・タウンに突然あらわれた男が、白分をこのロケットに今から塔乗させろといっているようなものだと想像すればよいだろう。いわば「絶望的難易度」という可能性を、どのような方法で可能にしたかという点は、従来の大師伝は放置してきている。

 入唐されたのだから、入唐したんだというのでは説明にはなるまい。

 筆者のいう「大師二度渡航説」はなぜあのように簡単に乗船することができたかという、その謎への一つの試論だと理解してもらってもよい。

 話しをもとにもどして、『大日経』発見のくだりである。大師が奈良での青年時代のある日、『大日経』を発見し、経典本文中の難解な部分について、おそらく都じゅうの名僧知識をたずね歩いたのであろうということは、真実、大師の青春期に起きた事件だと思う。問題はその解決策だ。文字の不明を質すため、深山幽谷へ修業の旅に出たなどとはとても考えられない。

 すぐれた人物の青春時代、おさえがたいものは真理に対する探究心であり、知識欲であることは千年の昔も今もかわりない。大師は『大日経』中の意味不明な部分について、奈良じゅうを必死になってたずね歩いたことであろう。しかしそれ以上のことは、大陸に渡らねばむりなことを知らされた時、どうしたであろう。すぐさま大師は海を渡られたのである。

 その当時、遣唐使船などというごく「国家的手段」を唯一とぜず、私的な方法でなら、それも朝鮮を経由すれば、大陸に渡ることは、現代人が想像するほど困難なことではなかった。現在わかることは、そのために必要とする時間は数時間である。(現在国境という昔はなかつた白線によってくぎられる、日本側と朝鮮側の最短部分を航海した場合) 事実、大師等一行の船が目的地を大きくはずれて、福建省に漂着した時、土地の官吏が上陸を許可しなかった理由は、密貿易船か海賊船にまちがえられたからであろうと従来説明されているが、それは逆からいえば間違えるほど、その種の船が日本と大陸の間を航海していたということでもある。

 青春の知識欲の前に、その船がどのような種類の船であろうなどはほとんど意味がない。

 多少飛躍するだろうが、現在でも中国あるいは東南アジアからの密入国が、どのような小規模な船によっておこなわれているかご存知であろうか。それらはほとんど十数屯の船で、自然による危険の他に千年前にはなかった国境監視船という危険さえふりきって今日も行なわれている。

 今からつい百年ほど前、幕末から明治にかけて、多くの青年が欧米のすぐれた知識を吸収するため、渡海した。そのエネルギーがつまるところ一つの知識欲から出たものだということは、吉田松陰の例をあげるまでもなかろう。

 凡人はそれが千年も昔のことだといわれると、当時の人間は現代人とは似ても似つかぬことでも考えたのかと思ってしまう。今どき百才をこえるのはそれほどめずらしいことではなくなってしまったが、千年といえばその百歳の老人がわずか十人分という時間である。千年前も今も、人間が考えることなどそうたいしたひらきがあろうはずもない。「知識欲」というものが、生命の危険さえも、ふりきるに十分なものであることは、今も昔も変わりはないのである。

 人物伝は単にその人物の判明している事実をつなぎあわせればそれですむというものではない。歴史的事実と事実のあいだをうずめる推理がなくてはならない。 この時、自分だったらどうするのか、大日経という至高の真理を目前にした天才的学究、血ほとばしる青年が、その解明を十年もがまんできたのか。たった一度だけ危険をかえりみなければ、一度だけ生命をかければよいことなら、どうして大陸に渡らないことがあろうか。解釈をたずさえて帰国することなど、こんな時、論外のことなのだ。


 私ならなにをちゅうちょすることがあるだろう、すぐさま海賊船だろうが、いかつり舩の漁師だろうが、なんでもよいすぐに渡海したと思う。空白の十年は、空白の十年なんだなどと枯息な説明に終始するのは、自巳の青春に狂気をもたなかった人間の言うことである。