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− 真言宗中国開教史(二) −
真言宗布教制度の確立と日清戦争・従軍僧
松下隆洪(平塚市 宝善院住職) |
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■ 談義僧(だんぎそう) 山本 寂明 ■
山本寂明はもと備後の鞆の津(とものつ)、福禅寺の僧である。真言宗における「布教」という宗教行為はこの人物から始まったといえる。(福禅寺は広島県福山市鞆の浦(とものうら)にある名刹で、江戸時代には朝鮮通信使の滞在寺として著名、広島県史跡、日本史に残る有名寺院である。また鞆の浦は宮崎駿監督アニメ"崖の上のポニョ"の舞台となった風光明媚な景勝地でもある)
明治は、偉大なる混沌の時代でもあった。九州・大分の寒村に小栗栖香頂という、中国大陸に仏教を逆輸入しようとした人物を産んだ世紀は、広島にも山本寂明というすぐれて、一風変った明治真言人を産んでいた。
寂明生涯の大志は、
「釈尊出世の本懐は一切衆生をして転迷開悟せしむるにあり、我若し教化に勉めずんば何ぞ末徒の列に在らんや」
というものであった。
そういう彼が初めて説法の座に立ったのは、寂明十九才の時であったという。明治二五年六月、八十有四才で生涯を終えるまで、六十余年間ほとんどその一生は、大衆教化に過ぎた。寂明がその生涯に講演に立った回数は、四万余席にも及んだという。
彼が生まれた広島は、もともと「安芸門徒」とよばれる真宗勢力の強い所である。そういう土地柄の影響もあってであろう、彼が大衆布教を生涯の志にしたのは。そのような寂明であっても、彼が一風変っていたといわれるのは、当時、彼のように「大衆布教」などを重視する僧は真言宗では「談義僧(だんぎそう)」などと蔑称され、階級は最下級に置かれ、宗内からは、ただ軽蔑しかもらえなかったからである。現代では信じられないが明治初年当時、真言教団において布教師は、いってみれば勝新太郎の「座頭市」程度にしか評価されていなかった。
古来、全てを秘密のベールのかげに隠してきた真言密教では、「師資相伝」という密室で行われる師から弟子へ、弟子からまた弟子へという伝達形式しか認めていなかった。その象徴が暗闇の灌頂院で行われる伝法潅頂であろう。こういう教育方法には、それなりの効果もあっただろうが、明治の時代、すでに時代錯誤だった。それでもなほ、山本寂明に対する真言教団の評価は、「機根もそなわらぬ不特定多数の大衆に、密教を布教するなどとはとんでもないことだ」、という評価しか実のところ与えられていなかった。
その「弁説説法専ら」「最下級」「談義僧」の山本寂明が、勇躍、「高野山教議所」の居並ぶお偉方、伝法大阿闍梨様、大僧正様に布教の模範を示すため、講師として招聘されたのが明治八年十月であった。まさにこの時こそが、真言宗説教・布教の揺籃といえる。
今日のようにあらゆる宗教集団が、テレビからデパートの催物会場まで、大衆宣伝・布教を行っている現在ではいささか、信じがたいことだが、明治を迎えるまで真言宗には「大衆布教制度」というものは全く無かった。宗団が積極的に「大衆布教」ということにのりだしたのは、明治以後なのである。これだけでもビックリだが、真言宗には布教をしてはならないという、布教に対応した宗教罪まである。これを越法罪(おっぽうざい)という。つまり余計な事をしゃべった罪という罪だ。これでは布教などとても考えようがなかったのである。
近年、ようやく研究されてきつつある"仏教民俗学"からの「高野聖」への評価も、江戸幕藩体制以前についてであり、仏教々団が体制内ではっきりとその位置と役割を決められた江戸時代、真言教団として「布教制度」というものは、全く持っていなかった。またその経済的必要性もなかった。
江戸幕藩体制下の中で、仏教各派の中でも有数の寺領を所有していた真言教団にとって、真宗のような大衆接触機構としての布教制度というものは、経済的にもほとんどその必要性がなかったわけである。明治維新を迎え、初めて真言教団は大衆布教を目前の問題にした。
幕藩体制の崩壊と薩長明治政府、つづく廃仏毀釈は、それぞれの教団の旧体制への癒着の度合いに応じたショックを与えた。ほとんど大名にも匹敵する広大な寺領を所有し、権力からの保護を受けてきた真言教団は、経済的にも政治的にも危機にひんした。明治初期、教団には「布教」などをする余裕は全くなかったというのが事実だろう。教団と本山をどう保持するかということだけで、実のところ手いっぱいであった。
さらに明治新政府の宗教政策は神道一点ばりであったし、およそ真言宗が出る幕もなかったわけである。決定的な事実は、明治二三年、「布教伝道の自由」が明治政府により法律で認められるまで、仏教各宗の"布教"が自由におこなわれることはなかったといってよいだろう。明治二十三年以前、真言宗では段階的に布教制度が作られてきたが、全て布教全面解禁にいたるまでの経過措置だといえよう。(別記・真言宗布教制度の確立年表)
本稿で取り上げる真言宗の「日清戦争従軍布教」も、「布教伝道の自由」が解禁されて、わずか四年後のことであったという、異常な事実に注目しておく必要がある。日清戦争における仏教各派の従軍布教の裏には、薩長政府による徹底的な仏教弾圧が形式的にとけた数年後という時代背景があったのである。 |
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