− 真言宗中国開教史(二) −
真言宗布教制度の確立と日清戦争・従軍僧
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 日清戦争 戦勝祈願法要の意味するもの ■

 すでに戦いが始まっていた。しかしそのニュースは断片的に宗団の機関紙、たとえば『密厳教報』などにも発表されていたが、当初それほど熱狂的に戦争は伝えられているわけではなかった。宣戦布告後の論調からすれば不思議なほど、当初はごく冷静に、傍観者風に伝えられている。

 戦場が朝鮮半島という遠方であったことにも原因があろうが、日本人が外国に出兵して国外で戦争をするということに、現実感がわかなかったということもあったろう。

 宣戦布告前の冷静さに打って変って、八月一日、日清戦争の詔勅が天皇から発布されるや、宗団、世論も熱狂的に戦争支持論にかわってゆく。

 真言宗では宣戦の詔勅が出る二日前、明治二七年七月三十日、真言宗長者 高志大了の名で宗内一般へ次のような通達をだしている。(日清戦争当時教団は、東寺を総本山とする新義・古義合同時代にあった。)

「番外 宗内一般@ 目下日清韓交渉の事件に仍り 護衛の出兵等容易ならざるの際 本宗宗徒たるもの 内には御願円満の祈念を凝らし 外には恤兵(じゅっぺい・兵隊を援助すること)の義挙を奨励し 忠誠国に報ゆるの実を表すべし 右訓論候事 明治二七年七月三十日 真言宗長者 大僧正 高志大了」

 これより前、七月二八日には智山、豊山合同の通達Aが、二九日には醍醐派からそれぞれ通達Bが出ている。

 これらの通達は真言宗が日清戦争という近代戦に遭遇した、最初の反応である。それぞれの各派では戦争そのものに協力せよということでは一致しているが、うけとめ方と、具体的な方法では微妙な違いを残している。

 @が経済面、精神面からの協力を指示しているのに対して、AもそのとおりだがBは精神面のことのみを指示している。国家権力の命令を組織内で若干であれ、解釈の差を残すなどは、その後の大東亜戦争では考えられなかったことである。

 七月三十日、教団が初めて末寺に対して、「忠誠、国に報ゆる」よう指示したあと、全国の末寺がまず行ったのは戦勝祈願の法要と恤兵献金(じゅっぺいけんきん・兵士を助け献金する事)であった。

 八月一日に宣戦布告がされるとすぐ「鎮護国家武運長久の祈祷法要概報」という記事で、全国で行われている戦勝祈願法要が、県別・寺別にこくめいに細大漏らさず宗内機関紙に報告されてくる。

 記事を読むと、とてつもなく熱心に、自ら主体的、自主的に戦勝祈願法要が大小を問わず日本全国で毎日のように行われている。国家権力からの強制などとはとても思えない。これをどう解釈したらよいだろうか。仏教教団の国家権力奉仕だなどという単純な解釈ではおさまらない。ここにはなにかおもてには出ていないが、当時の仏教教団の複雑な深層心理があったのではないか。当時仏教側は薩長政府に対し無条件に好感を持っていたのではない。先述の金剛峰寺に対する「弘法神社になれ」命令や、高野山の僧侶に対する苗字強制という還俗指令に対応した、高野山管長の降魔(ごうま)姓などは明らかに政府への無言の抵抗ではないか。明治薩長政府が当時の日本人に無条件で好感をもって受け入れられたのではない。むしろその反対に嫌悪感を持つ多くの日本人がいた。

 たとえば、名人・円生の十八番に「五人廻し」がある。この話は明治初期の東京吉原の遊郭を舞台に五人のいけすかない客と女郎、若い衆(ぎゅうたろう)が繰り広げるどたばた喜劇で、最後にオチョクラレル客が薩摩の巡査の設定だ。上方と違って吉原では女郎はその晩なんにんもの客に買われるのだが、必ずしもその晩、すべての客の部屋に出仕するとは限らない。おおかたは振られるそうだ、中には「三日月ぶり」なんていう洒落た振り方があるそうだ。「宵にちらりとみたばかり」というのだそうだ。薩摩の巡査は「女郎が来ない」といって「金返せ」とわめいている。若い衆が「とんでもねー野暮だ」と冷笑する。これは江戸っ子の反薩摩喝采落語だった。

 江戸っ子に言わせれば、薩長政府なんぞは一種のオカルト宗教政府だった。

 まだある、変人文豪・永井荷風は「薩長土肥の浪士は実行すべからざる攘夷論を称え、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を転覆したれど、もとこれ文華を有せざる蛮族なり」(「東京の夏の趣味」 半藤一利「幕末史」より引用)だそうだ。

 まだある西相模地方で幕末から明治にかけて寺院の徒弟になった出身階層を調査すると旗本・御家人の子供が多くみられる。これは単純に口減らしということではないだろう、ならば羽振りのよさそうな神主に志願するだろうに、わざわざ落ちぶれ坊主の弟子になろうというのは、明らかにアンチ薩長政府への抗議であったと思われる。(「最明寺蔵 関東古義真言宗本末帳」昭和六一年弘法大師千百五十年御遠忌 宝善院記念出版)

 つまり決して薩長政府は人民に好かれていたのではない。特に日清戦争の頃には明らかに徳川家関係者やその家族が存命していた。明治薩長政府は人民の中で無原則受け入れられた国家ではなかった。そこには非常に屈折した心理背景があったとおもえる。教団人は複雑な心理で国家と戦争を感じていた。

※ 資料:徳川瓦解と高野山
 薩長政府の高野山廃仏・弾圧・収奪は次のように行われた。

  明治3年12月 境内地を除く全ての土地を政府に上納命令
  明治4年1月 二万一千三百石を政府に上納命令
  明治6年   高野山の山林四千町歩を政府に上納命令
  明治10年  第一回高野山寺院合併命令
  明治19年  第二回高野山寺院合併命令
  明治21年  第三回高野山寺院合併命令

 多くの寺院の中には食うに食えないものも続出し、還俗して下山するものも多く、寺院の修復もできず、廃寺のまま雨ざらしになるものが続出、明治十八年、高野山山内寺院が出した願書によれば、明治以前凡そ七百ヶ寺あった山内寺院が百三十ヶ寺になったと(「高野山史」宮坂宥勝・佐藤任編著)

 明治の廃仏毀釈以来、ありとあらゆる形式で政府から弾圧されてきた仏教教団にとって、戦勝祈願法要は初めて国家に対して、自己表現できる最大のチャンスとして現れた絶好の機会だったのではないか。徳川瓦解いらい十重二十重の苦渋を飲まされてきた仏教教団は、今こそ檀家の先頭に立って、国難に立ち向かう、これこそが薩長無理やり政府への存在証明だ、というような意識だったみるべきではないか。これらおびただしい祈祷法要の記事がそれを証明しているようだ。

 明治教団人の風貌を見てみよう。

 「長野県小県塩尻村 東福寺 向井亮通氏は、住職日浅けれど堂宇に修繕を加え 護法への念深き人なりとそ、さて去今回の事変を聞や逸早く出兵者健全の大法を修し、村内出兵遺族者へ守札を施与し、また村民に国民の義務を懇篤説論し、且恤兵部へ献金の事を奨励せり、然るに今般更に篤志者と謀り婦女子を勧めて真綿若干貫目を集め、出兵者防寒用品として其筋へ献納したり」(『密厳教報』明治二七年十月二五日一二二号)

 この頃全国の地方寺院で行なわれた戦勝祈願法要の平均的次第はだいたい次のようなものであった。当時の資料を散見するに恐らく寺院の大小、檀家数の大小を問わず恐らくは日本全国、全寺院で行われたのではないかと思われる。

 「八月五日 在韓兵士安全の為め、茨木県新治郡石岡町国分寺において 大般若経の転読を修行したる景況は、同寺薬師堂内儀式等 方のごとく門前へは国旗を交叉し、其左右中央の三方へは数百の球燈を弔し、又同町国分町太田吉松氏の尽力に依り、同町各戸へ国旗を掲けしめ、而して右両郡内の寺院数十名は同日早天より○寺に来集し、在韓我帝国兵士安全祈祷会、我帝国兵士武運長久祈祷会と大書したる紅白弐○の大旗を左右に掲げ、導師川崎を始め寺院数十名、次に両郡の檀信徒惣代世話人、有志等順次同寺より繰りだし、薬師堂に着し法要を為せり」(『密厳教報』明治二七年八月十二日一一七号)

 全国末寺で行なわれたこのような戦勝祈願の法要は、当時の真言教団人がどのように戦争にかかりあったかということをものがたるとともに、このような全国いっせいにおこなれたカンパニア活動の政治的影響力も非常に大きかった考えられる。

 たとえば、法要の前にすでに檀信徒へ「恤兵部寄贈金品諭告を発布」(一一八号)して戦争目的の滲透をはかってあったし、法要のあとは参詣の檀徒に「法要をなし物品献品等の事を懇々説諭」(一一九号)し、もっとすすんだ地域では「法要後は恤兵部献金並報国演説をなしつつ部落を巡教」(一一九号)するようなことも行なわれた。

 この戦勝祈願法要は、日本全国村落共同体の中で戦争遂行目的の徹底をはかるため、戦争遂行の政治集会の役割を果たすことであった。法要のあとにはかならず布教法話がなされ、その役割をはたした。

 このころから布教にも新しい文明の機械がとりいれられ、「幻燈」が使われるようになる。「幻燈」は東京浅草の「経世書院」から『日清事件映画三十余枚』として発表されたものである。この幻燈を使ってどのような布教がなされたかというと。

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 戦時仏教信徒の心得 勅語の解説 日清開戦の理由 恤兵部献品奨励 予備後備征清兵士の遺族扶助勧誘等
 右報国の為に戦地の実況を幻燈に映し、説明の労を取り謝儀旅費を要せす四方の依頼に応す、謹て憂国の諸師に告く
  武州北足立郡大門村
  大興寺 真田永清
  明治二七年十月 (密厳教報一二一号)