− 真言宗中国開教史(二) −
真言宗布教制度の確立と日清戦争・従軍僧
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 日本人の心の中に初めて敵国人が出現 ■

 戦勝祈願法要の中で注目すべきことは、「当日は演説々教をなし大に参詣者一同の敵愾心を起さしめた」(一二三号)ということである。

 「国民大衆はかならずしも清国に対して敵対感情を抱かず、その気運を醸成するためにさまざまな手がうたれる。日本人の中国人に対する、いわゆる"チャンコロ"意識がつくりだされるのも、この過程においてだ」(「日本人の"敵"意識」尾崎秀樹、『解釈と鑑賞』七三年八月号)

 日本人の「敵意識の醸成」について日清戦争ほど重要な時期と事件は無かったように思われる。日本人が敵外国人を意識しだすのは、日清戦争からだったのだ。江戸時代三百年、平和の中で過ごすことができた日本人には、実は外国人が敵国人だなどという意識はほとんど無かった、世界にまれに見る文化と民族だったのである。

 戦勝祈願法要には必ずそのあとで布教・説教が行なわれ"敵国"という概念注入が村人に行なわれた。ラジオ・テレビ・新聞等、情報手段が確立されていなかったこの時代に、全国の村々で開かれたこの種の集会が戦争遂行におよぼした影響力は、計り知れないものがあったと考えられる。  真言宗従軍僧の出発は、開戦後五カ月たった十二月であるが、この五カ月のあいだに全国で行なわれた、こうした政治小集会とアジテーションが、必然的に誰かを朝鮮半島へ行かせざるをえなくなってきたということである。それほどこの時期、彼ら教団人がこの戦争に示したボルテージは高かった。戦場などには誰も行きたくはなかったが、それでも、誰かが行かざるを得ない雰囲気が教団の機関紙・誌に作られ始めていた。

 さらに日清戦争という日本と清国との「外部矛盾」は当然ながら日本国内における「内部矛盾」をも激化させることとなった。すでに仏教々団は、キリスト教徒とは敵対関係にあったし、当時新興の天理教とも「邪教撲滅」の関係にあった。戦争が始まったとき、教団人たちはいちはやく「邪教撲滅」のために、戦勝祈願法要とその集会を利用することを図った。失ったものを考えなければ、これは政治手段としては実に巧妙な方法であったといえよう。

 この実例として例えば、埼玉県のある地方ではキリスト教の布教を防ぐために、部落の真言宗、曹洞宗、神道が協力して日清戦争の幻燈会・演説会を開いて、とうとう村内からキリスト教を追いだしたという。さらに戦勝祈願と「邪教撲滅」を結びつけることが「是れ破邪顕正の秘訣なり」としている。内部矛盾を封鎖するために、もっと大きい大儀名文や外部矛盾を利用することは、たしかにすぐれた政治的手腕であった。

 この戦争のさなか、真言宗の地方寺院では、「報国会」あるいは「報国義会」、「護国教会」という組織が、集落の真言宗の寺院連合として作られている。この組織は、真言宗の地方寺院の戦争協力の末端機関として、戦勝祈願、仏教演説、法話説教、幻燈布教と義捐金募集などを行なうための、数カ寺からなる寺院連合であった。日清戦争において、各集落の寺院は、戦争遂行のための一大カンパニア活動の中心戦力としての役割を十二分に果たした。

 真言宗からの従軍僧の派遣は、このような当時の日本人の、意識の尖鋭化の極点として現われたのである。