− 真言宗中国開教史(一) −
日本仏教中国開教の発端
明治六年 小栗栖 香頂(おぐるす こうちょう)中国開教を目指して北京に至る
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 北京に至る ■

 香頂が北京に入ったのは、明治六年八月十六日であった。大分の自坊、妙正寺を出てからはや五カ月がすぎていた。

 ようやくたどりついた北京だったが、彼には行くべきあてが無かった。

 「十六日、北京ニ入ル。路人ニ問ウ。何寺ニ高僧有リヤ。曰 某寺可也。曰 某寺可也。到レバ則チ之ヲ拒ム」

 というありさまであった。

 彼の北京までの道程をたどってみると、七月十九日、上海に着いた香頂は、龍華寺で北京に八大寺とよばれている八つの名刹があると聞き、北京へ行くため一路天津へ向かった。天津では大悲庵の證空から八大寺の詳細と北京までの道程をたずねている。北京へは陸路よりも運河を行った方がよいと教えられ、舟で、北京の手前の通州に着いたのが、八月十五日であった。その晩泊まった宿にたずねてきた僧のはなしでは、

 「八大寺に高僧など居ないが、いかれるならまず法源寺へ行きなさい。」

 ということで、十九日、八大寺の一つの法源寺を訪ねた。そこで彼は筆談で高僧の門に入って先ず語学を学び、そのあとで仏教と詩文を学びたいのでよろしく入門させてほしいと頼んだが、ここでもことわられて、教えてもらったのが龍泉寺であった。

 法源寺の僧から龍泉寺の大和尚は北京一の高僧だと聞いた香頂は、ようやく自分が事を謀るべき人物を見つけたことを知り、『竜泉寺大和尚ニ呈スル書』をさっそく作って龍泉寺を訪れた。

 北京の夏は暑い。五尺の体をひっさげ、汗をふきふき龍泉寺の門をくぐった香頂の気分はどうであったろう。この日のために彼ははるばる東シナ海の荒波をこえて来たのだから。 彼がこれほどまでにして北京にやってきたその目的は、三国同盟を結ぶためであった。つまりキリスト教のアジア侵出と、キリスト教を楯にした西洋植民地主義とアジア侵略に対抗するため、日本、中国、印度を結ぶ、仏教同盟を計画していたのである。

 「方今 西洋耶蘇教日本ニ波及ス。大天主堂ハ各処ニ巍然トス。然レドモ邦僧惰劣ニシテ之ニ抗スル能ズ。香頂 万里海ヲ踏ミ来ル。大師ヲ訪レテ護法ノ策ヲ聞カント欲ス。香頂北京ニ入ッテ、之ヲ名刹高僧ニ訴エント欲ス」

 龍泉寺の本然和尚に書を呈した香頂に対し、本然の答えは彼をよろこばすものではなかった。

 「貴僧の書を読ませていただいたが、貴僧の学問の優長なことは、ただならないものがあります。まことに法を思う心もただただ歎ずるばかりであります。しかし今は末法の時代です。とてもこれを挽回することはできません。貴僧が語学を学ぼうとされてもとてもむずかしいことです」

 こういう本然和尚の答えに対して香頂は、

 「私は学問が浅く、文はつたなく、とてもおほめいただく程のものでもありません。また護法の赤心というものも、これは仏世尊のみ知られるものです。しかしながら私は万里の海をこえ、この国にやってきました。どうかこの寺に留めおかれて、学問をさせていただけないでしょうか」

 彼が龍泉寺の清慈庵に一隅を許されたのは、本然の全くの好意からであった。

 香頂がこれほどまでにして北京までやってきた背景には、彼の学問形成が大きく原因していると思われる。

 香頂は学問するにあたってもたいへん恵まれた人物であったと先述したが、それには父親の了堅の及ぶところが多かった。了堅という人物、香頂の父親にふさわしい、やはり大人物であったといえよう。

 了堅は常日頃、中戸次の近くを流れる錦川の風景が好きで、よく香頂ら子供たちをつれて遊びに行った。了堅の得意は子供たちに題を命じて漢詩を作らせることであった。詩ができあがると、こんどは父親の了堅が朗吟するというわけである。父の腰には瓢箪に入れた酒が、子供たちには竹の皮につつんだにぎりめしがぶらさがっていた。こうして一日遊ぶのを、香頂たちは無上の楽しみとしていたという。

 父親の了堅の香頂に対する教育方法もかわっていた。香頂は寺で生まれたくせに、二十二才になるまで全く仏教学というものをしていない。それまでどうしていたかというと、五才の時はじめた漢学ばかりをして、二十二才まで儒教一本やりであった。その後、仏学にはいって三十二才のとき八宗の学問を大成したといわれる。

 こういう教育方法をとった父の了堅もすぐれているが、それを受けた香頂にもそれだけの資質があったのだろう。

 香頂は十才で得度しているが、この時彼を見た本山の講師は彼を一見して「奇童・香頂」という名前をつけたという。奇とはめずらしい、いっぷうかわった、あやしいである。彼には子供の時からそういう面影があった。

 翌年十一才、彼は大分の臼杵藩黌(うすきはんこう・藩が経営する学校)に入学し、武人と同学した。父がいうには「以テ児ガ胆ヲ錬ルニ足ル」である。それでも足らずにこれから先は、寺男と同じ部屋、同じ蒲団に寝させたという。「蒲団ノ温暖は惰骨ヲ養成セシム」である。

 彼のこの頃の思想形成の跡をたどってみると、二つの時期に分かれる。第一期は十二才前後までである。天保十三年、この年、父の了堅は、後藤己士という人物を彼の家庭教師につけている。この人はもと久留米藩の儒員であったのだが、なにかの理由で浪人していたのを香頂の家庭教師にたのんだものである。この人について香頂は漢学の基本的な学問を終了している。つまり詩書五経、論語、孟子、大学、中庸、唐詩選、古今和歌集等である。

 第二期は、現在の大分県日田市にあった広瀬淡窓の塾に入ってからである。ここに六年在学している。ここでも彼の才は群をぬいて、四千人からいたという門人の中で香頂は「大鵬なり雄飛未だ測る可らず」と淡窓にいわしているくらいだ。淡窓の弟子には日本陸軍の創設者である大村益次郎、シーボルトの高弟となった高野長英などがおり、幕末期の我が国の人材の泉ともいえるほど多くの俊才を生んでいる。

 香頂の護法意識とは、いいかえればキリスト教と、西洋植民地主義、アヘン戦争に代表されるアジア侵略にたいする危機感であるが、彼の徹底した反キリスト主義は若年時代の儒教を主とした思想形成に深く根ざしていたと思われる。

 明治維新の年、人心が騒乱して仏教のかわりにキリスト教が国教になるなどというデマが飛んだ時、香頂は『日本刀』というものすごい題の反キリスト教論を出しているくらいだ。「国民一人邪教ニ入レバ、国体ノ為メ一人敵人ヲ出ダスナリ」というわけである。

 だから香頂の万里踏海も、アジアにおけるキリスト教の侵出と、それにささえられた西洋植民地主義に対する危機感の中で、純粋培養された「仏教護法精神」の当然の帰結であったともいえよう。